Hikaru 1 進藤の部屋は件の寿司屋から程近い、1LDKのこぢんまりとしたマンションだった。 とは言っても一人暮らしには充分広く、寝室も軽いパーテイションがあるだけでほとんどLDKと同化している。 『水……くれる?』 『はい』 ソファに倒れ込んだ進藤は、早速夜神を使う。 夜神はカウンター式のキッチンに入り、シンクの横に干してあったグラスを手に取ると、冷蔵庫を開けた。 中にはペットボトルの茶とビール以外、ほとんど何も入っていない。 すぐに閉めて、水道の蛇口から水を汲む。 『ごめんなぁ』 『何がですか』 『なんかさ……』 進藤は起き上がって水を飲むと、少し意識がはっきりしたようで目を開いた。 『本当はタクシーで帰りたかったんじゃね?』 『いえ……』 『碁なんかやってるからさ、勝手に貧乏学生だって、決めつけてた。ごめん。 遠慮してるんだと思ってたけど、そうじゃなかったんじゃないかって今気がついた』 『貧乏には違いありませんよ。ほぼ無一文ですし』 『そうなの?』 『はい。この間も十四万ほどあぶく銭を掴んだのに、下らない物を買ってしまって』 『意外〜。そんな風に見えない』 先程まで今にも寝入りそうだった進藤は、一杯の水で文字通り水を得た魚のように回復している。 『ごめん、呼んでおいてなんだけど、余分な布団とかないんだよね。 ベッド広いから一緒でいい?気持ち悪い?』 『いえ……気持ち悪いとは思いませんが……』 進藤は元々緩んでいたネクタイを乱暴に引っぱって抜くと、その辺に放り出した。 ジャケットも脱いで、こちらはさすがに寝室に行ってハンガーに掛ける。 ついでに奥でごそごそしていたと思うと、素っ裸で戻って来た。 『進藤プロ?』 『シャワー』 『はぁ……』 一言だけ言って、悠々と夜神の前を横切って、バスルームに向かう。 夜神ほど筋肉質ではないが、座り仕事の割りには引き締まった身体だった。 日本語で「カラスの行水」と言うのだろうか。 十分程で、濡れた髪の進藤はスウェットパンツとTシャツ姿になって戻って来た。 『あー、さっぱりした。楊月も寛いでくれよ』 『寛いでますよ』 今度は進藤自らキッチンに行き、夜神にも茶を注いで持ってくる。 『ああ、お気遣いなく』 『まあまあ』 それから二人はしばし無言で、茶を飲んでいた。 夜神も相当喉が渇いていたらしい。 『……酔っ払いはくどいと思うだろうけどさ』 『はい』 『楊月の師匠って、本当に本当にサイじゃないよな?』 『……』 カメラが少し傾いた。 きっと困った顔をしているのだろう。 私は思わず呟いていた。 「違いますよ。過去に『サイ』と名乗った事は一度もありません」 『違いますね。 進藤先生も、私はサイとは関係無いと仰っていたではありませんか』 『いやそれはアンタが緒方さんに目を付けられたら困るだろうと……いや。 そっか……そうだよな』 進藤が片手で顔を拭うような仕草を終えると、少し涙ぐんでいるように見える。 『サイに関しては、進藤先生が詳しいんですよね?』 『え?』 『緒方先生が言っていました。あなたが口を割らないと』 『ああ……』 進藤は曖昧に返事をしながらペットボトルから2杯目の茶を注いだ。 『まあ、楊月も気になったら人に訊くだろうし、そしたらバレる事だから言っとくけど』 口が軽いのは、酒のせいか。 それとも元々のキャラクターなのか。 『オレも、碁を始めてから一ヶ月目くらいが一番強かったんだよね』 『一番?今より?』 『そう。今より』 進藤ヒカルが年若い頃に異常に強かったというエピソードを拾った事はあるが。 囲碁を初めて一ヶ月の初心者がプロ棋士に勝つ確率は数百億分の一だろう。 『その頃、既にプロ試験を受けようかという塔矢にも勝っちゃって……』 『にも?』 『そう。何度か、色んな人に勝ってしまった』 ……なるほど。 やはりそういう事か。 小学生時代と中学生時代の初め、異常に強かった進藤ヒカル。 そして、同時期に活躍していた謎のネット棋士、sai。 強かったのは、進藤ではないのだろう……。 『で、その頃のオレの打ち筋と、ネット上の棋士、saiの打ち筋が似てるっていうんで、オレの事をsaiかsaiの関係者だと思ってる奴がいるんだ』 『関係あるんですか?』 『……まあ……ない、とは言わない』 そうぽつりと言って茶を一口飲んだ後、進藤は慌てたように人差し指を口に当てた。 『あ、これ内緒だからな?』 『はい、誰にも言いません』 まあ言わなくても聞こえているが。 『で……オレが知ってるsaiは、もうこの世にいないんじゃないかと、思ってたんだ』 『過去形ですか』 『うん……でも楊月と今日打って、もしかしたら、あんたに教えたのはsaiなんじゃないかって、思った』 『違いますが』 『本当に?』 本筋の連続死亡事件とはズレるが、これはこれで面白い事件だ。 『もしかして名前を変えているかも知れません。 名前と打ち筋以外に何か特徴はないんですか?』 夜神も同じように思ったのか、上手く誘導質問をする。 気の利いた事だ。 『特徴……っても、有りまくりっちゃあ有りまくりな奴だったからなぁ』 進藤は頭を掻きながら口を歪めた。 『とにかく浮き世離れしていて』 『はい』 『えーっと、髪が真っ黒で、服装が、うーん、外人さんにどう説明したらいいのか』 『いつも同じ服を着ていたという事ですか?』 『うん、まあそう』 夜神はくすっと笑い声を漏らすと、 『それ、僕の師匠にも当てはまりますね』 『マジで!』 『はい。凄い奴ではあるんですが、意外と若くて』 『ちょ、ソイツって、何か食べる?』 『食に関しては……あまりまともに食事をしている所は見た事がないな』 進藤は、元々丸い目をこぼれ落ちそうに見開いていた。
|