62.「世迷言を」 「進藤、塔矢んちに泊まったんだって?」 「ん〜まあな」 「なんでそんなハメに」 「まあ、色々あって」 今週に入ってから、知り合いに会う度に繰り返された会話。 塔矢家に泊まるってのは、大変な事らしい。 北斗杯の合宿みたいに大義名分があったら別だけど、 基本、塔矢門下の人でも個人的に塔矢家で寝る事は滅多にないそうだ。 塔矢門下じゃないし、塔矢先生がいない時だったんだから、 オレは『塔矢アキラの友人』として塔矢家を訪れ、しかも泊まった事になる。 そんな事があっても、塔矢もオレも吹聴しないから問題にもならない筈なんだけど 今回は偶々、塔矢先生から塔矢門下、そこから広がって 物凄い噂になってしまった。 別に悪いことはしてないんだけど。 みんなに「なんで?」って言われると、不思議な罪悪感が生まれる。 特に森下先生には、何も聞かれていないけれどまともに目を見られない。 あの日。 塔矢の布団に潜り込んで、寝てしまった翌日。 玄関がざわついた気配にまず目を覚ましたのは、やっぱり塔矢だった。 いきなり布団を捲り上げられて、オレも飛び起きた。 目の前に、鬼の形相の塔矢。 『帰れと、言っただろう』 大きな声じゃない、静かな静かな、押し殺した声だったのが余計に怖かった。 うつらうつらと、人肌の温もりと塔矢の匂いに酔いながら 幸せにまどろんでいた数秒前との落差が烈しい。 『ご、ごめん!あの、おはよ……』 『両親が帰ってきた。何て言うんだ』 『あ、あの、オレゆうべは、風邪ひきそうで、』 どこまでもずるいオレ。 だけど風邪をひきそうで外に出たくなかったのも、 目の前の布団以外潜り込む場所がなかったのも本当だ。 『なら、余計に早く帰ったら良かっただろう!』 『アキラさん、帰りましたよ。どなたかいらっしゃるの?』 ぱたぱたと、スリッパの音が近づいてくる。 塔矢のかーさん……息子が女を連れ込んでたらどうすんだよ。 『おかえりなさい。おはよう』 『はい、おはよう……あら』 パジャマで布団の脇に正座をしている塔矢アキラ。 私服で、まだ塔矢の布団の中で肘を突いているオレ。 どんな風に見えてるんだろ。 布団が一組しかないから、二人で寝たってバレてるだろうな。 パジャマの塔矢が布団の外で寝た筈ないし。 『よく話している、森下先生の所の進藤だよ。昨夜泊まりました』 『ええ……』 『風邪気味で調子が悪かったみたいで、帰れなかったみたい』 『みたい。って』 『ボクが先に寝てしまったので、客用布団が出せなかったようです』 『まあ』 それから塔矢のかーさんが、お客様を、しかも病気の人を放置して 先に寝るとはどういう了見だ、みたいな事を塔矢に軽く説教して、 オレに謝り倒して去っていった。 『あ、あの、ごめん。お母さんに誤解されたみたいで、』 『別に誤解でもないだろう。ボクにも落ち度がないでもないし』 『オマエの落ち度って?』 『キミを家に入れた事と、早めに無理矢理にでも追い出さなかった事だ』 『ひでー』 オレを落ち込ませる物言いをしつつ、そんなにも怒っていないことに ホッとした。 ……昨夜のキスは、気付かれていない。 オレがどんな思いで塔矢の体温を感じていたかという事も。 でも。 塔矢の中では、オレはもう警戒すべき男じゃないんだなあ……。 同じ布団で寝て、気持ち悪いとは思っても、 何かされたんじゃないかとか、危険を感じたりはしないんだな。 なんだか寂しい。 振られた直後は、元通りに戻れるんだろうかとか、色々悩んだのに。 本当にただの友人に戻ってしまうと、違う、そうじゃない、って思う。 その朝は、本当に気まずかった。 塔矢のかーさんに朝食を食べていくように勧められたけど、 夜中移動で疲れてるだろうに、飯なんか作らせられないし、 そもそも材料がないだろうし。 少し疲れた顔の塔矢先生と、着替えても無表情のままの塔矢と、 なぜだか恐縮しているかーさんに見送られて、オレは塔矢家を後にした。 塔矢先生がその事を緒方先生に漏らしたのには、特に他意はないと思う。 珍しいお客さんが来てたよ、ってだけの話だろう。 それを、さも事件が起こったかのように言いふらしたのは、 緒方先生の悪意じゃないかと思う。 「進藤って、塔矢アキラくんと特別な関係なんだって?」 「奈瀬〜、変な言い方すんなよ」 「だってぇ、一緒の布団で寝てたんでしょ?」 「……いや、それは偶々、ってかそんな事まで広まってんの?」 「女流でも噂になってるわよ」 奈瀬が何故か嬉しそうに言ってくる。 オレと塔矢がってのを本気にしている訳ではないだろうけど、 面白おかしく噂にされて、塔矢に嫌な思いをさせたらヤだな。 「塔矢くんと進藤って、元々仲いいもんねぇ」 「別に……そんなんじゃねえよ」 「そう?」 「てか仲悪いと思われてると思ってた」 「そういう話もあるけど」 塔矢アキラと進藤ヒカルは、犬猿の仲だ。 いやいや切磋琢磨しあう良きライバルだ。 それ以前に小学生時代からの親友なんだって? ライバルだという事以外、肯定した覚えはない。 注目されて、色々取りざたされる事を、 オレは楽しんでいたし、塔矢は全然気にもしていなかった。 でもここに至って、そういう、特別な関係だなんて 言われると、さすがに塔矢も黙っていないだろう。 「あ。噂をすれば、ってね。塔矢さーん!」 「奈瀬さん、仙台のイベント以来ですね」 「そうそう。塔矢さん打ち上げ来なかったから、駒田さん残念がってたよ」 「そんな事もないでしょう」 あ、そっか。 地方の囲碁イベントの解説で塔矢と奈瀬は会ってた。 「今ね、進藤と……」 奈瀬に、噂が物凄い広がってるような話をされたら困る! そう思ったオレは、自分から話しだした。 「女流で、オマエとオレが怪しいなんて話してる奴がいるんだって」 「怪しい?」 「その、何か関係があるんじゃないかって。女ってくだんねーよなぁ」 「関係?」 鈍い……。 相手の言葉を鸚鵡返しにするのはどうとかって言ってたくせに。 「ほら。前、一緒の布団で寝ちゃったじゃん」 「ああ……」 「それだけの事でさ、オマエとオレが、」 「世迷い言を」 「……」 ……人がしゃべってる最中に。 一刀両断。 顔は笑っていても、その吐き捨てるような物言いで話を断ち切る。 奈瀬も、笑顔を凍らせたまま目を見開いていた。 「あ、緒方さんだ。それじゃあ」 「あ、うん……」 「ああ……」 あっさり塔矢が去って、奈瀬と顔を見合わせる。 「……ないわ〜」 「何が?」 「進藤と塔矢くん。あり得ないわね」 「だからそう言ってるじゃん」 そう言いつつ、やっぱり寂しい。 奈瀬から噂消しの噂は広まり、オレと塔矢が怪しいなんて思う奴は すぐにいなくなるだろう。 ……本当は、噂だけでも塔矢と恋仲になれたら、 少しだけ嬉しかったんだけどな。 「『雨の降るほど噂はあれど』、か」 「何?」 「あれ?進藤、藤原会長から都々逸カレンダー貰わなかった?」 「あ、奈瀬も貰ったんだ」 「結構貰ってる人いるよ。都々逸って面白いよね」 家に帰って見たら、確かに「今日の一節」は 雨の降るほど噂はあれど ただの一度も濡れはせぬ だった。 本当に、塔矢とオレみたいだ。 ただの一度でいいから、塔矢と濡れてみたい。 そんな事を思いながら、その日は自慰をして寝た。 -了- ※このシリーズは本当に全くノープランで書いているのですが、 だんだんヒカルが可哀相になってきました。 奈瀬にとってアキラさんは、棋士の先輩ではあるけれど年下の男の子でもあり 面と向かっては「くん付け」しにくいけれど敬語を使う程でもない、という位置です。 「25.気ちがい水」に続きます。
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