52.夜の果て(前編) 手が痛くて目が覚めた。 痛いっていうか、感覚が無くなってきて無意識の内にヤバイと思ったんだ。 意識がはっきりしてくると、そういえばずっと痛かったような気がした。 と思った途端、血が通って痺れが取れ始めて、あののたうち回るような感じに オレはただ俯いて「くぅ」と唸った。 何とか騙し騙し感覚を戻し、体を起こしてみる。 痛い筈だ。後ろ手に縛られている。 足が自由なのは救いだったが、すぐには立ち上がる気力もなかった。 辺りは薄暗い。 四畳半ほどの和室みたいだ。 襖が二方にある。 襖のない片隅には、大きな黒い金具のついた古そうな箪笥があった。 明かりは天井の電灯の真ん中でオレンジ色に光っている小丸球だけ。 窓はあるが、障子が閉まっていて微かな明かりも入ってこない所を見ると 雨戸が閉まっているんだろう。 それだけ見て取った所で、どこかでみしみしと音がした。 隣の部屋で畳を踏んでいる音だ。 誰かが来る。 縛られて、知らない場所に居て、誰かがやってくるというのは怖い状況だ。 出来れば通り過ぎてくれとか、 この部屋が目的地じゃないよな?とか、 一生懸命祈ったり考えたりしてたけど、その甲斐もなくガラッと襖が開いた。 塔矢がいた。 当たり前に入ってきて電灯を点ける。 なんだ、と。知っている顔だと安心するには、違和感があった。 そしてオレはやっと思い出す。 ここに来るまでのこと。 オレの、塔矢の身の上に起こった出来事。 「オマエ……生きてたのか」 そう。塔矢は死にかけていた。 現代日本でこんな事言ってもネタにしか思えないだろうけど、餓死しかけていた。 理由は、普通の食事が出来なくなったから。 はっきり言うと、吸血鬼になってしまったから。 それが妖怪みたいなものなのか、病気なのかはオレには分からない。 けれど塔矢は、ある時から映画や漫画で見る吸血鬼の特徴を見せ始めた。 昼間出歩かない。 食事をしない。 夜、空を飛ぶ。 鏡に映らない。 確かめてないけど、きっとニンニクや十字架も苦手なんじゃないかと思う。 塔矢は多分、人の生き血を吸って生きることを良しとせず 自らの命を燃やし尽くすように衰弱していった……。 筈だったんだけど。 全部夢?夢だったのか?と思うほど今の塔矢は生き生きしていて顔色も良い。 バラ色の頬は男だと分かっていてもドキッとする程だ。 ふと気付いてぞっとして首筋を庇うように肩を竦めると、 塔矢はクスクスと笑い出した。 「飲んでないよ。キミの血は」 夢じゃ、なかったか……。 言葉を発した口の中が異様に黒い。 いや、あれは「赤」だ。 見たくないのに、視線が塔矢の手元に降りる。 それに塔矢も気付いて、ことさらゆっくりと、その持っていたものを 口に近づけた。 ちゅうちゅうと、子どもがパックに入ったジュースをストローで吸うように 本当に何気なくさりげなく日常的に、 塔矢が吸っていたのは、ビニールに入った血だった。 ドラマとかで、輸血したりしてるやつ。 半透明で、目盛がついてて。 「これね、マップって言ってるんだけど。結構いい値段するんだよ。 この量を献血してもジュース一本しか貰えないのにね」 それでもオレは、何かの冗談のような気がしていた。 だってそうだろ? こんなの塔矢じゃない。 塔矢にそっくりな誰かが、冗談グッズを使ってオレを脅かしている。 それが自分の中で一番合理的で、かつ望ましい解釈だった。 でも塔矢から漂ってくる、鉄くさいような生臭いような匂いは。 「ボクが死ななかったのかという話だったね」 オレが何も言ってないのに、塔矢は続ける。 楽しむように、芝居がかった仕草で頭の横に指を当てて考える振りをした。 「そうだな……今思うと、バカらしいね。せっかく永遠の命を手に入れたのに」 「でも……」 「別に人から直接血を吸わなくても、今はこういうものが手に入るんだよ。 日本にもヴァンパイアのネットワークがあってね」 ……別人、だと思う。 オレが泣きながら血を吸ってくれと言っても、遠くを見たまま頷かなかった塔矢。 彫像のように、青白くやつれた頬をして、死を待っていた。 正直に言おう。 オレは、そんな塔矢が美しいと思った。 男とか女とか、そんなの関係なく。 潔いって言うか、武士道みたいな……。 他人の血を吸う位なら迷いなく死を選ぶ。 それはとても悲しい選択だけれど、とても塔矢らしいきれいなやり方だと思った。 今の塔矢はどうだ。 立ち飲みしながら血の値段がどうとかネットワークとか。 下品で俗っぽい。饒舌だ。 そんなオレの心を読んだように、塔矢は眉を顰めた。 「キミの勝手なイメージをボクに押しつけないでくれ」 …本当に、心が読めているのかも知れない。 吸血鬼だから。 「そうだな……確かにあの時、ヴァンパイアとして生きる位なら、 人として死にたいと思っていた。それも間違いなくボクだよ」 表情が消え、心なしか血の気が引き、あの時の塔矢を思い出す。 電灯の真下まで来て顔を俯けたので、影で造作が全く見えなくなった。 「でも、本当に死にかけた時、思ったんだ」 「……」 「自分がそこまでして守ろうとしているモノは、本当にそんなに大事なモノなのかと」 そうだ。 そうだった、思い出した。 オレの部屋で、死にかけていた塔矢は突然カッと目を開いてオレを見たんだ。 目が合った途端に気が遠くなって……その後、誰か別のヤツも来た気がする。 気を失ったまま担がれて、ゆらゆらと運ばれた気もする。 「ボクは、生まれ変わった」 ここは……塔矢の家なのか? そう言われてみればそんな感じだ。 この部屋には来た事ないけど、全体の雰囲気が。 という事は、オレは誘拐された、のか? 何のために、一体? 塔矢はまた、何の振りもなく唐突に話を変えた。 「キミは勘違いしてたみたいだけど、ヴァンパイアに血を吸われたら 必ずヴァンパイアになる訳じゃないんだよ。 そんな事になったら仲間は増えるわ食料は減るわで早晩自滅するからね」 「……」 「血を飲む方法は二つ。一つはコレみたいに、一旦体外に出た血を飲む。 対象に影響はないけど、鮮度は落ちるし、しかも凍らせたり殺菌しているから不味い」 「……」 聞きたくもないのに、なんかファンタジーな決まり事を淡々と語る。 そんな専門知識オレはいらない。 「もう一つは、昔ながらに直接人から貰う方法。 基本、血を吸われた人間は、死ぬ」 塔矢の顔の陰影が歪む。 どうやら口元を歪めたようだ。 笑ったのかも知れない。 と思っていたら急にその顔が迫ってきた。 オレのすぐ前までしゃがみ込んでくる。 バラの香がふわりと漂う。 その時には、真面目な表情に戻っていた。 頬に血の気も戻って目がきらきらと光っている。 腹立たしい事に、オレは、そんな塔矢も前とは違う意味できれいだと思ってしまった。 今度は多分、女のきれいさと同じような感情を湧き起こす美しさだ。 「どうすれば、死なずにヴァンパイアになれると思う?」 頬と頬が触れそうに近づいてきて、耳に息を吹き込むように囁く。 「そんなの、知らない」 「……ふふっ。だろうね」 「つかこれほどけよ!何のつもりだよ!」 塔矢はまた鼻先まで顔を戻して、笑った。 「ヴァンパイアと人間が、愛し合っていればなれる。らしいよ」 「そーかよ。関係ねーだろ。離れろっての」 人の話を聞いていない。 塔矢は、勝手にべらべらと話し続ける。 「まあそれはロマンチックに歪められた表現でね。 実際には二つほどの条件を満たせば愛とかそんな下らない事とは関係なく、 なれるんだ」 「……」 「聞きたい?」 聞きたくねーっての! オレはもう、何も言うのもバカらしくて、ただただ塔矢を睨んだ。 「その前に言っておくと、ボクはお腹が空いているんだ」 「!……だって、今、」 「一ヶ月も水も飲んでなかったからね。あれしきじゃ、足りない」 おいおいおいおいおい!それって、それって、 オレをこんな所まで誘拐してきたのって、 「そうだよ。だから、キミに選ばせてあげようと思って」 「……」 「このまま血を吸われて死ぬか、それとも」 吸血鬼になるかってか?冗談じゃない!そんなの嫌だ! 永遠の命なんていらない。 人の血を吸って生きたくなんかない。 塔矢と愛し合……あ・あ・なんだって?! 「条件を言おう。一つは、人間の方が血を吸われる事を望むこと」 「……」 望まねーけどな! 塔矢が死にかけていた時、あの時ならそれも良いかと思ったけど 今はゴメンだ。 「もう一つは」 オレの気持ちとは関係なく塔矢は続けて、意味ありげに言葉を切った。 「……んだよ」 「タイミング、だね」 「?」 「人間が、…性的な快楽の絶頂を迎えたと同時に血を吸う事。 男なら、射精の瞬間という事なんだけど」 「はぁ?!」 やっぱ塔矢じゃねーわコイツ。 塔矢なら「射精」とか絶対言わない。 いや、「快楽の絶頂」とかそういう寒い表現はらしいと言えばらしいか。 「どうする?今すぐ死ぬか、永遠の命を得るか。 ボクとしては、キミと打ち続けたいから、後者がお勧めだけれど」 この時の塔矢は、一瞬以前に戻ったように見えた。 血を吸わなかった頃じゃなく、吸血鬼ですらなかった時代。 お互い普通の人間で、碁打ちだった、今思えば何て甘く幸せな時代。 「……で。もしオレが、それでオッケーってったら、どうなるの」 「ボクがしてあげる。手でも口でも、お望みのままに」 赤い口の両端が、糸で釣ったように吊り上がる。 オレはゾッとしたけど、それが恐怖からなのか、おぞましさからなのか 塔矢の(認めたくないけれど)妖艶さからなのか、自分でも分からなかった。 「そして、キミがイく瞬間、血を吸ってあげる」 冗談じゃない。 こんな頭のおかしい(生態もだけど)奴に付き合ってらんない。 どうすれば、どうすればこの状況から逃げられるか頭を必死に回転させながら 取り敢えず言葉を繋いだ。 「……へえ。オマエもそうやって吸血鬼になったんだ?」 「そうだね。ボクはその瞬間、『彼女』になら血を吸われても良いと、 つい言ってしまったんだ」 へー。コイツ童貞じゃなかったんだ。 相手が人間じゃないとは言え。 意外っつーか、何か悔しいな。どうでも良いけど。 あ。 そうか、それで思い付いた。 この場から逃げる方法。 上手く言いくるめられるかどうか分からないけど、賭けてみるしかない。 「……分かったよ」 「ヴァンパイアになる覚悟が出来たか?」 「ああ。この若さで死ぬのはゴメンだし。オレもオマエと打ち続けたいしな」 「そう」 薄く微笑みながら何の躊躇いもなくオレの足の間に屈み込み、 ベルトを外してファスナーを下ろし始めた塔矢を見て ああ、本当にコイツはイっちゃってるんだなぁと今更淋しい気持ちになった。 オレは絶対、コイツと同じには、ならない。 −続く−
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