27.冒涜的行為(前)
27.冒涜的行為(前編)









日が傾き、薄暗くなった室内にしゅ、しゅ、という微かな衣擦れが響く。

薄紅の障子の上の方に、庭木の枝が細密に映し出されている。
という事は、もう日がほとんど沈み掛けているのだろう。


……少し急いだ方が良いか。


時計のないこの部屋で、足袋と襦袢だけを身につけたアキラは内心呟いた。

裾の上前を合わせ、位置を決めて腰骨に指で押さえつけながら、
肩に掛けていた博多帯を巻いていく。

腹に少しでもタオルを入れた方が姿が決まるだろうが、
今回はそんな気にはなれない。
元々、腰の細い軽々しい程の着物姿の方が自分に似合っているとも思っていた。
ない恰幅や貫禄を、タオルで補うのは莫迦莫迦しい気がする。


「おかあさ……」


帯を巻きかけて両手を後ろへ回したまま、廊下の方へ体を向けて
声を上げ、ふと思いとどまった。
今日は、両親ともいないのだった。
また、いて貰っては困る。

大丈夫。自分でも帯は結べる。
後ろで結ぶのは自信がないので、腹をへこませて
ぎゅ、ぎゅ、と帯を回す。
結び目を体の前に持ってきて、慣れた手つきで貝の口に結び、
鏡でしばらく眺めた後またほどく。

今度は少し垂れを長めに取ってまた同じ結び方をし、
最後に残った部分を帯に差し込んだ。
いわゆる「侍結び」だ。

アキラが、侍結びを選んだのには理由が二つあった。

一つは、話題づくり。
話が途切れた時というのは、和服の事に触れられる可能性が高い。
そんな時、これはお侍さんの帯の結び方だと言うと
着物に詳しくない人は大概感心してくれるか、あるいはその振りをしてくれる。

もう一つの理由は、これは無意識だったが貝の口より緩みにくい事。
より完全武装な気がしていた。

そう。
アキラにとって和服は戦闘服だった。



……本来、今日はゆっくりとする筈だったのに。



二ヶ月ほど前にヒカルに好きだと言われたのだ。
「そういう意味」で好きなのだと、念を押された。

そんなつもりはなかったのに、 何事もなかったかのように流してしまうのが
最上の対応だと分かっていたのに、
アキラは耳まで真っ赤になってしまって、何も言えずに俯いて。

それが、ヒカルが「付き合って欲しい」と言ったのと同じタイミングだったものだから
それは意図せず(意図せず?)ヒカルを喜ばせる結果になってしまった。

後悔はしていない。
自分が進藤を好きか嫌いかと言えば、好きだろう。

「そういう意味」かどうかは、まだよく分からないが
それはこれから突き詰めていけばいい。

敢えて現実から目を背け、曖昧な認識から考えを進めなかった。
でも二人きりになるのはまだ気まずくて、(本当は怖くて、)
以来、棋院と碁会所以外の場所では会わないように気を付けている。

そのヒカルが、掛けてきた電話の声が、妙に静かだったのだ。
低い声で、先生とおばさんいないんだろ?六時頃行くよ、と、
アキラの返事も待たずに切った。

アキラはやっと、現実に目を向ける気になった。
向けざるを得なかった。



きっと今夜は、戦争になる。



碁の勝負を持ちかけて来るにしろ、それはとてつもなく重い物になるだろう。

そうでなくとも、いやそんな事は考えたくもないが、
とにかくいずれにせよ、きっちりと襟を詰めた和服は相手を威圧する武器になるはずで
また、アキラを奮い立たせる役にも立った。

昔から、ここ一番の勝負の時には和服を着ていた。

幼い頃、父の師匠の元に連れて行かれた時、
値踏みをするような目で眺め回されても怖じずにいられたのは
着ていた物のお陰だと今でも思っている。
タイトルを奪い合うようになってからは、それも全戦和服で臨んでいる。

さすがに今日は絹ではなく麻だが、それでも着ずにいられなかった。

また帯を見ようと鏡の前に立ち、体を捻る。
だがもうとっぷりと日が暮れて,
部屋もアキラも薄闇に包まれていた。





ピーーーン……


座敷で座して、じっと目を瞑っていたアキラの耳に、
不意に高い音が響く。


ポーーン


目を、開く。

指で呼び鈴を長く押し、そしてゆっくり離す。
室内モニタがなくても分かる、敢えてこんな間抜けな音を立てるのは
ヒカル以外にはない。

アキラは膝を立て、側に畳んであった羽織に手を伸ばしたが、
結局羽織る事をやめた。
自宅の中で、異常にかしこまっていると思われるのも困るし
せっかくの帯の結び目が見えないというのもある。


ピーーーン………


「分かったよ……そう急かすな」


独り言を言いながら、玄関に向かう。
自分は緊張しているか?
落ち着いている。
だが、敢えてこんな自問をする所を見ると、平常心でもないだろう。


ポーーン……


玄関内灯のスイッチに指を伸ばし、また躊躇う。
灯りをつける事によって、連続ピンポン攻撃は止むだろう。

だが……今なら居留守を使えなくもない。
何と言っても、自分は今日の訪問宣言に返事をしていない。

しかしそんな事を思ったのは一瞬で、すぐにスイッチを押す。
いくら逡巡しても、そんな女々しい真似を
自分が自分に許せない事は、経験上よく分かっていた。


「今、開けるよ」


引き戸からするりと入ってきたヒカルは、いつものカジュアルな出で立ちだった。
Tシャツにフードのついた蛍光オレンジのベスト、いつものジーンズ。


「……あれ、何かあったの?」


アキラの姿を見て、目を丸くする。


「いや」

「今晩、用事あった……とか?」

「だったらどうするんだ」

「あってもその様子だったらもう断ったんだろ」

「……少しは気兼ねしろよ」

「いいじゃん。オマエとオレの仲だろ?」


靴を脱ぎながら、上目遣いでアキラを見る。
アキラは、後ずさりしてしまいそうな足を息を吸って止めた。


「……どうぞ」


踵を返し、先に立って座敷に案内する。
ひんやりとした木の床を踏む度に、足袋がきゅ、きゅ、と足指の付け根を
締め付ける。
出して置いたスリッパをつっかけ、後ろからパタパタとヒカルが
着いてくる気配がする。


「なあ」

「ここが座敷だ。あの座布団に適当に座ってくれ」

「塔矢」

「後で聞く。お茶を入れてくる」


……無様だ。
アキラは自嘲しながら、台所に向かった。

急須に湯を注ぎながら、もう一度自問する。
ボクは、緊張しているか?狼狽えているか?

少し。少しだけ。

進藤はどうだっただろうか……。

表情は硬かったが、最初から虎視眈々といった風情だった。
悔しいが、自分の緊張は草食獣のそれで、ヒカルの緊張は
肉食獣のものだと認めずにはいられない。

だが、草食獣が兎や鹿ばかりだと思うなよ。






「お待たせ」

「おう。悪いな」


漆盆から茶托を下ろし、その上に茶碗を置く。
急須から緑茶を……良い方の緑茶を、ゆっくりと注ぐ。
ヒカルが黙ったままそれを見つめているのが、不気味と言えば不気味であった。


「どうぞ」

「……『どうぞ』しか言わねーのな」

「……」

「で。どうなの?……『どうぞ』なの?」


茶を口に運びながら、まずは碁か、などと考えていたアキラは
一瞬聞き逃す。
しかし唇が薄い陶器でふさがっていたからこそ、
反射的に「何が?」と聞き返せなかったのは幸いだった。


「……」


無言で、両手の中に囲った茶碗を見つめ続けるアキラを、
片手で無造作に茶碗を持ち上げたヒカルが見つめる。


……「どうぞ」なんて、これ以上言えない。


まさか、いきなりこんな攻撃をしてくるとは思わなかった。
もう少しこう、社交辞令や探り合いがあるものなのではないか。

それとも不意打ちで、一気に崩すつもりか。
どうやっていなすべきか。それともここは受けて立つべきか。

アキラがこの場でいきなり横たわり、目を閉じて「どうぞ」と言えば
進藤はどんな顔をするだろうか。
などと想像すると、自然に眉が寄った。




「なあ。どうなの?」

「……ああ……」

「結局の所、今日は、ヤらせてくれるの?くれないの?」


冗談のようでもなく、詰め寄ってくる。
アキラは、和服が鎧の役目を全うしていない事にため息をついた。


「何を、とか言うなよな」


進藤は、これほどまでに無神経に攻撃的な男だっただろうか。

普通の男女でも、告白した後初めて二人きりになって、ヤるヤらないはないだろう。

それに、確かに自分は付き合ってくれと言われて頷いたが、男同士なんだから
冗談なんじゃないかとか、そこに何か誤解があったのではないかとか、
まずその位の疑惑は持って欲しい。

……それとも、男同士だから、いきなり体の関係に持ち込んでもいい、
とかそういうものなんだろうか。


「言わないが……」


歯がゆいほど、自分が動揺しているのを感じる。
そして、のんびりと心理戦に備えていた事が腹立たしい。

ヒカルは自分の前で格好つけようとか、良く思われたいとか、
そんな事は全く思っていなかった。
ヒカル自身の欲望が最優先。

その事に軽く傷ついたアキラだったが、自身がその傷に気付く前に
防御本能が怒りの感情を生み出した。
答えを、求めてじっと見つめるヒカルをあからさまに無視し、
台所の方角に、睨むような視線を送る。


「……菓子が」

「させてくれるの?」

「和菓子が、あるんだ。美味しいのが」


立ち上がろうと畳に触れた指を、驚くほど素早くヒカルが掴む。


「何を、」


睨んだ表情のままヒカルに目をやったアキラは、そこに同じくらい
強い視線で自分の顔を見つめるヒカルを見つけた。


「……するんだ」

「なんでオマエ、」


噛み合わない会話。
出口の見えない迷路。


「なんで、そんなクールなの」


嫌悪感に思わず力を込めて、手を振り払う。
と同時にヒカルは払われた手の袂を掴んだ。


「離せよ」

「誘ってる?」


袂を引き寄せ、アキラが破れるのを恐れて少し身を寄せると
袖からするっと冷たい指を滑り込ませて来る。
手首の内側の、柔らかい皮膚に触れられてぞわっと鳥肌が立つ。

もう我慢の限界だった。

袂を力任せに引っ張り抜き、勢い余って反対側に体が倒れる。
そのまま這って離れようとすると、今度は足袋の足首を、掴まれた。


「はなっ、」

「何この、色っぽい着物」


苛立ちと恐怖で思考能力を失い、それでも逃げなければと思い、
調理台の上に静かに置かれてある練り切りのイメージに縋り、
台所に向かって這い続ける。

こんな時間に菓子を出すのは、夕食は出さないぞという意思表示のつもりだった。
ヒカルが察しが良ければ、長居はしない筈だった。

だが、相手はそれどころではなかった。
ばたばたと這ってアキラの足首を掴み、ふくらはぎまで手を伸ばそうとしている。


「離せ!」


膝を、引きつけようとすると襦袢の中でするりと滑り。
着物が吊って、足が縺れた。前に進まない。


「てめぇ、」


苛立ったヒカルの声に、アキラの理性の糸も断ち切られた。
自ら膝を開き、張った裾を手刀で割る。
瞬間、自由になった足を盲滅法蹴り出したのが、ヒカルの鼻柱に命中した。





時が止まり、音が消える。

実際は数秒であろうが、永遠に続きそうな沈黙に
アキラがなんとはなしに叫び出したい気分になった頃、


「……てぇ!」


ヒカルの怒声が響いた。
顔の下半分を覆った手の、指の間をゆっくりと赤い筋が這っていく。


「てめえ、何すんだよ!」


離して睨んだ自らの掌に、血が。

アキラはその色に竦み、動けなくなっていた。
自らが他人を傷つけた事実を、受け止めかねて声が出ない。

現実とは思えなかった。
つい先ほどまでの静謐、端正にこの家に流れていた時間。

それが今はどうだ。

転がった湯飲み、盆の上に流れる茶。

膝立ちで、鼻から血を流しているヒカル。
自分はと言えば、襟をはだけ裾も乱したまま行儀悪く横座りしている。

まるで、壊れた人形が、二体。

ヒカルという異分子が乱れ入って来た事により、崩れゆく日常。
汚された聖域。

部屋の中には、二人分の荒い息遣いだけが響いていた。

その音が耳に入っているのかいないのか、ヒカルはただ
アキラの目を睨みながら爆発する時を選んでいる。

ぴくり、とでも動けば、ヒカルも動く。
そう思うとアキラは裾の乱れを直すことも出来なかった。




ぽた。


血がヒカルの指を離れ、アキラの真っ白な足袋に真っ赤な円を形作った、
その瞬間か一瞬後かに、ヒカルが無言で動き出した。

早くない。
むしろスローモーションに近い滑らかな動きで、アキラに、紅く染まった掌が迫る。
絶対に逃がさないと、逃げる事など許さないと告げるスピード。


「や、」


それが顔に触れそうになった瞬間、アキラは遂に声を上げた。


「やめてくれ……」

「……」

「着物に、血が、」


着物に血がついたら困るというのは、言い訳ではない。
だが、それ以上にここで空気を変えたい、気持ちがあった。

流れがヒカルに偏りすぎている。
自分が打った手が。
和服が、茶が、菓子が。暴力が。
全て裏目に出ている。

だが


「なら自分で脱いで」


ヒカルは間髪入れずに答えた。











※書きかけておいてあったので、自分でも何がしたかったんだか。
 多分着物萌え……だと思うのですが。




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