27.冒涜的行為(後編) 帯を解き(結局結び方の説明なんかする余裕はない)、するりと肩から着物を落とす。 時間を掛けて丁寧に畳み、これ以上は無理だと思った。 これ以上、脱げない。 無意識に襦袢の襟を整えるが、すぐにヒカルの手に乱される事は予想出来た。 一方ヒカルは鼻血に苦戦していた。 どうしても止まらないようで、拭いても後から後からその口元を汚し続ける。 ……なんだろう、この時間は。 お互い相手をないがしろにして、自分の作業に没頭している。 間延びした時間。 しかしこの後、その距離は限りなく近づくのだろう。 取り敢えず、襦袢に血が付くのは、諦めるしかない。 アキラは一つため息を吐いてヒカルに向き直った。 ヒカルも、ティッシュも鼻に詰めずにアキラの目を覗き込む。 言ってもいないのに襦袢は汚しても良いものと心得たように、血の残る手で肩を掴んだ。 押し倒されるかと思ったが、そのまま抱き寄せられて首筋に口をつけられる。 「おい!」 「ダメ我慢の限界もう耐えられないこんな格好見せられて」 「ちょっと進藤……いきなり、こんな、」 白い首に、襟に、肩に、腕に、 ……胸に……鳩尾に、 ヒカルが襟を広げるのに伴って、赤い染みが広がっていく。 アキラはと言えば、 「付き合うと言った覚えはない」とか 「自分はまだキミが好きかどうか分からない」とか 「仮に好きだとしても、それが肉体関係を伴う関係になるかどうかは別」だとか そんな事を伝えたいけれど、自分で着物を脱いでおいてそれも通用しないと嘆息する。 「……キミは、強引だ」 だからただ不満を含んだ感想を伝えるのが精一杯だった。 「ああ、そうだよ」 「強引な人は、好きじゃない」 「オレはオマエみたいな奥手な人、好きだぜ」 結局押し倒されて。 このままそういう事をしてしまうのか、この調子ならしてしまうのだろうが まだそれは現実感がない。 女の人とする時は、そんな事はなかった。 これほど緊張もしなかったし、夢の中のようだとも、そうでもないとも思わなかった。 ヒカルはまた少しアキラの顔を見つめた後、頬に口づける。 可愛い事をする、と思う間もなく唇が滑ってアキラの口を捉えた。 血の味の口づけ。 拒むのも大人げなくて、少し口を開くと無遠慮な舌が入り込んで来る。 自分の髪が、二人の唇の間に挟まって気持ちが悪い。 進藤は不快じゃないんだろうか……。 そんな事を思いながら、細やかに不測の動きをする舌を、 追ってみたり逃げてみたりする。 やがて顔を離したヒカルは、少し不思議そうに首を傾げた。 「……オマエ、意外とキス上手いんだ」 「いい師匠がいたんでね」 「オレを燃えさせるつもりなら、良いタイミングだな。過去形なのもナイス」 「……」 我ながら好手だと思った切り返しも、予想されていたかのように斬り捨てられる。 今日の進藤には敵わない…… アキラにとっては認めたくない事だが、ヒカルに勝てる気がしなかった。 もし今碁を打っても、きっと良い勝負は出来ない。 一体、何故だ? どこからボクは、間違えた? 「……なあ進藤」 「なに」 「どうしてこんな事に、なっているんだろう」 バカのような質問だと思ったし、まともに返事があるとも思わなかったが 「オレがオマエを好きだから」 あっさりとした答えが返ってきた。 「で、自分でも強引だと思いながらこうした?」 「そう」 顔を強張らせていたのに気付いたのか、ヒカルがアキラの頬に また口づけた。 「だって、こうでもしないとオマエを抱けないじゃん」 「それで、ボクに嫌われても構わないと?」 「……」 耳が、赤く生臭く染められていく。 面倒くせえ、とばかりに、溜め息が吹き込まれる。 「あのさ、そういうの、終わってからでよくね?ヤりながら色々話したい方?」 「好きだと言ったのは、単に抱きたいという意味だったのか?」 「……」 だとすれば、一度我慢すれば、解放してくれるのだろうか。 それとも。 「……あのなぁ、何もそこまで考える事ねえじゃん。 好きだから、ヤりたい。それじゃダメな訳?」 「ボクの気持ちは、無視か?」 「オマエは、オレの事好きだよ。ずっとオレを見てた」 「……そういうのじゃ、ない。 それにボクは、正直キミに触れたいとかしたいとか、思わない」 「そうかな?」 「そうだ」 「なら、死にものぐるいで逃げろよ。簡単だろ?」 く、と言葉に詰まる。 確かにヒカルの言う通りだ。 力で敵わないという事はない。 ただ、力尽くで逃げようと言う気にはなれなかった。 先ほど一つ蹴りを入れてしまった事にすら、胸が痛んだ。 今後のことを気にして動けないのは、アキラの方だ。 怪我をさせて気まずくなって、プライベートで打つこともなくなって お互いを気にしながらも寄らず触らず一生を終える……。 そんな未来が恐ろしいのは、自分だけなのだ。 そう思うと泣きたい気持ちになった。 ヒカルが、ヒカルの碁が、大切だ。 何よりも。だから話し合いたい。 碁以外で衝突なんかしたくない。 しかしヒカルが話し合いを拒むのなら、自分には為す術がない。 アキラは何故自分がヒカルに勝てないのかをはっきりと悟り、 目を閉じた。 納まっていたヒカルの鼻血は、アキラの肌が露わになっていくにつれて再発し、 長い時間を掛けて顔から足袋までがかすれた血で染められた。 「ああ……汚いな」 アキラが思わず呟くと、口の横で乾いた血がぱりぱりと割れた気配がした。 粉と化して畳の上に落ちたり、汗や、ヒカルの唾液に濡れてまた赤くなったり。 半端な形で腰に絡まった襦袢も、所々赤茶に染まって薄汚くなっている。 「それが、堪らない」 「ええ?」 「血で汚れたオマエが、」 「どういう意味だ?」 「……言ったら怒るから言わない」 アキラが眉を顰めると、ヒカルは顔を背けて背後に回り、着物の裾に指を滑り込ませた。 太股に、内股に。 碁石のように冷たく硬い指先が触れ、滑っていく。 「……するね」 襲いかかってきた時の猛々しさからは思いも寄らないほど優しい声。 その優しさが苛立たしかった。 時に恫喝を交え、時に野放図にアキラを操ってきたヒカルの声。 アキラを這わせ、性器を押しつけた段になって、こんなに甘い声を掛けてくるなんて。 「ッつ!」 想像以上の痛みに、アキラが呻く。 「進藤、待て、」 「……もう、ちょっと」 「無理だ!入らないから!」 「力抜けよ」 本当に不可能だと思ったのだが、力を抜けと言われた瞬間 ずる、と内側に大きな物が入ってきた。 「ひ、」 痛いと、声を出すことも出来ず息を吸うのが精一杯だった。 ぬるぬるとしている、これは、血なんだと思う。 恐らく自分の。 「はぁ……やっと、塔矢と、塔矢に、入れた……」 満足げに呟き、じわじわと腰を進めるヒカル。 「進ど……嫌だ……」 太い木の杭を打ち込まれていくようだ。 壊れる、恐怖に涙が零れる。 「硬い……太すぎる、無理、入らない、」 「オマエの中も、熱くてきつくて気持ち良いよ……」 誉めていない!気持ちよくもない! 頓珍漢な答えに絶望が訪れる。 「奥まで、来る……頼むから、抜いてくれ……」 「力抜くのは、そっちだよ。痛くて、苦しい」 もう頭が朦朧として、どちらが痛がっているのか、判断も出来ない。 少しでも楽になりたくてゆっくりと息を吐くと、ヒカルがまた嘆息した。 「動くね……」 腰を抱え直し、ゆっくりと抜き、また奥まで打ち付ける。 「痛い……熱い、熱い、しんど、」 あまりの痛みに顔から血の気が引いていく。 一点だけが熱くて、溶けそうだ。 何とか目で訴えようと振り向くと、ヒカルは…… 笑っていた。 額に汗を滲ませ、頬を染め、目を充血させて、笑っていた。 ……ああ。進藤は、何も考えていない。 ボクのことを心配しない。 こんな時にも顔色を窺いもしない。 アキラの顔から、全ての表情が消える。 女性なら、こんな時にはきっと泣くのだろう……。 だが、涙は出なかった。 ボクとしたいのなら、したらいい。 最初は嫌だったけれど、痛みのピークを越えた今となってはどうでもいい。 アキラが今回悟ったのは、自分にはヒカルを拒絶する事は決してできない事。 許し続けて行き着いた先に、今の行為があるという事。 そしてそれは、耐えられない物ではなかったという事。 「はぁ、はぁ、ねえ、塔矢、イッても、いい?」 アキラはただ笑った。 答えても答えなくても、関係ないのだ。 アキラの許可などなくても、ヒカルは自分の思う通りにするだろう。 案の定ヒカルは腰を動かす速度を上げ、獣のように呻いて、果てた。 「塔矢、痛かった?」 「……ああ。とても」 「ごめん……オレ、気持ちよすぎて、オマエの事考えてなくて」 「そうだね」 「でも、良かったぁ!今日はオレの人生で、多分一番幸せな日だ」 勝手な事を、言うと思う。 アキラにとっては、今日は人生最悪とは言わないがそれに近い日となるだろう。 死にそうなほど、痛い思いをした。 男のプライドを、失った。 碁敵であり、大切な友人だと思っていた人が、……ただの碁敵になった。 「……好きだよ。塔矢。ずっと、ずっと好きだった」 「そう」 「オマエは?オレの事、好き?……だろ?」 自分は、ヒカルを拒絶出来ない。 けれど阿ることもないと思った。 「……いいじゃないか、そんな事。ボクの体を自由にしたのだから、満足だろう」 「まぁ、なあ」 悪びれずに言うヒカルに、アキラも諦観した微笑を浮かべる。 「オマエをこんな風に汚したのも、痛い思いをさせたのも、オレが初めてだろ?」 「それはそうだ」 「ああ、興奮する。オレも、オマエ以外にこんなにしたいと思った奴はいないよ」 自分だって、他の誰かにこんな事を許すなんて、あり得ない。 「だからオレ以外の人間の前で、血を流さないで。 苦しそうな顔もそそる顔もしないで」 「そんな予定はないが」 「オレだけが、塔矢を汚す。オレだけの塔矢でいて」 身勝手な言葉に、アキラはそれでも腹を立てなかった。 きっとそれは、愛ではない。 恋でもない。 けれど、あなたが特別な人なのだと、あなたの特別でありたいと告げる不器用な言葉。 「分かったよ……」 ボクはキミを、拒絶しない。 どこまでも受け入れ、血を流すだろう。 キミがボクを解放するその日まで。 けれど、「好き」だなんて絶対言わない。 この思いは、そんな簡単な言葉で言い表せない。 キミがボクの気持ちを、理解する日は来るのだろうか。 察する事をしないまっすぐな瞳。 ボクの鎧を、いともたやすく剥ぎ取ったキミ。 「なあ……一つお願いがあるんだけど」 「何」 「これから毎年今日、その着物で会ってくれないかな」 「お互い仕事の都合が合えば構わないが……何故だ?」 「今日を忘れないためだよ」 「だから、何故?」 初めて自分を抱いた日? 下らない事を考える。 この着物を着ろと言われたら、真冬でも真夏でもきっと自分は着るだろうに。 「今日は……特別なんだ。絶対オマエとこうなりたくて…… だから、今日は最初から戦闘モードで来た」 戦闘という言葉に、アキラは自分を棚に上げて眉を上げる。 その間にヒカルは脱ぎ捨てたベストを引き寄せ、ポケットから扇子を取り出した。 ふわりと、無意識に嗅ぎ慣れた匂いが漂う。 改めて聞いたことはなかったが、と思ったアキラの顔色を読んだのか 「白檀だって。この匂いを嗅ぐと、勇気が出るんだ」 ヒカルが独り言のように呟いた。 アキラは目を閉じる。 古風な香りを纏って、薄暮の町を踏みしめながら この家に向かってくるヒカルの姿が浮かぶ。 それは、アキラの和装と同じく、ヒカルの戦闘服なのだろう。 そう言えばタイトル戦を始め、ここ一番の大勝負の時にはこの香りを漂わせている。 正体はこの扇子か。 「……ボクを襲うためか?罰当たりだな」 「人聞きが悪いな。オレなりに必死なんだよ」 アキラは思わずほほえんでしまった。 必死だったのは、今日の訪問を戦争だと思っていたのは、自分だけではなかったのだ。 図らずも、自分の顔から険が抜け落ちていくのが分かる。 ヒカルはニヤリと笑った後、突然真顔に戻って正座をした。 畳に両手をつき、 「お陰様をもちまして良い記念日にあいなりましたので。 来年からは一緒に祝って下さい」 「……祝うって……」 「あ、祝うのは別にヤッた事じゃねえぜ」 「?」 「オレのこれから全ての誕生日を、オマエに祝わせてやる」 そう言えば……。 進藤の誕生日は初秋だと聞いたような気がする。 いつも、何を着たらいいか分からないような時節だと。 そうか。今日だったのか……。 「……まあ、可能な限りね。 友だちや恋人や、家族を優先したくなったらそちらと祝うと良いよ」 「鈍い」 「なんだと?」 鈍すぎて辛いとまで思った相手に、鈍いと言われてアキラは思わず声を荒げた。 「それじゃ意味ねえっての。 オレは、誕生日を絶対オマエの為に空けるって言ってんの。 一生分の誕生日を、てか一生をオマエに捧げるって言ってんの!」 「……」 アキラの眉が開く。 ああそういう意味か……。 それが言いたくて、今日の事があったのか。 と他人事のようには思うが。 「それは、プロポーズか?」 「え!いやそんな、……いや、まあ、そうです……」 「進藤」 「……なに」 「早まるな」 「なんだよそれ!」 ヒカルは恋に浮かれていると思う。 男同士で棋士同士。 近づきすぎて、良いはずがない。 だがヒカルは、手に入れてしまえば必ず失う日が来る、そんな事など全く思い至らないのだろう。 だから自分はヒカルを欲しくない。 欲しいなんて言わない。好きだなんて言わない。 でも……ヒカルに手に入れられるのは、悪い気分ではない。 「取り敢えず来年の今日、キミがもう少し上手くなっていたら考えるよ」 「……あっそ!んじゃそれまでにうんと練習しなくちゃな!」 怒ったように言うヒカルの鼻からまた一筋の血が垂れて、 アキラは小さく笑った。 -了- ※ヒカル24歳の誕生日おめでとう。 アキラさんが異様に優柔不断なのは私からの誕生日プレゼントという事で。 本当はもっとはっきりきっぱり断ると思います。 攻略レベルを下げてみた。
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