067:コインロッカー(前編)








手を、下ろそうとして下ろせない不自由さに目が覚めた。
ボクは、縛られてベッドに寝ていた。




見たことのない天井に、顔を横に向けるとカーテンが閉まった窓。
勿論部屋の内装にも見覚えはないが、どこと言って特徴はない。
今の所はボク一人しかいないようだ。

室温は適温に保たれていて、ボクはカバーの掛かったままのベッドに
横たわっている。
服はいつものシャツにスラックスのようだ。靴下と靴は脱がされている。


誘拐事件、か・・・。


妙に冷静な頭で考える。
幼い頃はよく知らない人に着いて行かないようにとか、人混みで手を離さないように
言われていたが、中学校に入った位からそんなことはすっかり失念していた。

だが一般的に見て、ボクにはまだ人質としての価値があるだろう。
それにしてもこれでも一応男のボクよりは母でもさらった方がまだ扱いやすいのではないか、
などとどうでもいい事を考えてしまう所を見ると、ボクもまだ現実を認識したくないのかも知れない。







しばらく深呼吸をした後。手錠を見てみた。
ボクの手をベッドに繋いでいるのは樹脂で出来たオモチャのような手錠で、
だが鎖は金属、作りもしっかりしてる。そうそう簡単には壊れそうにない。

足は自由になるので取り敢えずベッドヘッドに向かって座ってみる。
ベッドはスチール製だが病院にあるような丈夫なもので、
一瞬・・・自分が公的に拘束されている可能性を想像してしまってゾッとした。
ドアが開いて白衣の医者が入ってきたら一体どうしたらいいんだ?


大丈夫だ。
ボクの記憶に間違いがなければ、昨夜までは普通に棋士として生活していたし
大勢入り交じった懇親会で・・・少しお酒を飲んで・・・
引き揚げようと思って会場のコインロッカーに行って。

だがそれからの記憶が混乱している。
誰かが入ってきたような・・・抱えられて車に乗せられたような・・・
砂嵐のような視界。考えると後頭部が痛い。
殴られたのかも知れない。

自分が簡単に背を向けた所を見ると、怪しい人物ではなかったのだろうな。
多分普段から見知っているような・・・恐らく、プロ棋士。
そいつが犯人なのか、犯人に頼まれたのか分からないが
いずれにせよ同業者に裏切られたという思いに、口の中が苦くなった。


誰だ。
除外して良さそうなのは、芦原さん。
同門だから信用しているという以上に、他にいくらでもいい機会がある。
そういう意味では進藤もそうかも知れない。

緒方先生や座間先生など、疑いたくない人物がいなかったのは幸いだ。
正直昨日居たような若手棋士の顔と名前が今ひとつ一致しない。
恐らくこういう事をするのはまだ目立った活躍のない棋士だとは思うが・・・。

昨夜のメンバーで対局した事のある者を思い出そうとしたが
負かしていなくともただ若手の中で目立っている、というだけで恨みを買う可能性も考えて
諦めた。







とにかくクールダウンするために暫く頭を空っぽにしよう。
こういう時には碁の事を考えるのがいい。

・・・先日の一次予選、当たりたくないヤツと当たってしまった。
進藤とは、もっと上で当たりたかった。
負け惜しみで言うんじゃない。
我ながらいい出来だったと思えばこそだ。

あの時、下辺で手を抜かなければ・・・
迷った一手は必要ないと思ったから切ったのだけれど、その前に何故迷ったのか
もう少し掘り下げてみるべきだった。
直感というのは本当にあなどれない。
それが身に沁みただけでも貴重な一戦だったと言えるが・・・。


碁の事で頭に血が昇るというのは、ボクの場合頭が冷えている、という証拠だ。
よし、現実に思考を切り替えよう。

自力で脱出するのは難しそうだが、せめて何とか外に連絡出来ないものか。
視界に入る範囲には、ボクの鞄はない。そんなに不用心ではないか。
携帯が手の届く所にあれば・・・いや、GPSが付いたものにしておけば。

ここはどこだろう。
都内のマンションなどならいいが、人里離れたペンションだったりしたらかなりまずい。
だが、今まで生かされているという事は、すぐに殺すつもりはないという事だろう。
最初からそのつもりならば誘拐してすぐに命を取られている。

ボクを生かして置く理由・・・勿論家に帰すつもりであって欲しいが、それはあまりにも
楽観的だ。
そうでないとするとどういう可能性があるだろう。
家に身代金を要求して・・・その時家族に無事な声を聞かせるか。

いやその前に、電話番号を知らないから聞き出すために、という可能性も考えられるぞ。

その時どこか遠くで微かにドアの開閉音のようなものが聞こえて、ボクは一気に
冷静さを失い、慌てて縛めを外そうとしてしまった。







頭の上から腕を通して、体を何回転かさせてみる。
捻る力で手錠の鎖か留め金が壊せないかという試みだ。
限界まで捻ると、樹脂がミシ、と軋む。
このままでは手首が痛いので何か布を挟もうと・・・思ったところで扉の向こうに気配を感じたので
ボクは急いで逆回転して今目覚めたかのように横たわった。


やがて鍵穴に鍵が入る音、かちゃりと回転させる音、扉が開いて・・・
入って来たのは、やはり昨夜会場にいたプロ棋士の一人だった。

確か元院生で、成績は悪くないように思う。
でも直接対局した事はないし、印象も薄いので名前までは覚えていない。


「おはよう。」

「・・・・・・。」

「よく寝られた?」


強制的に寝かせておいてその言い様はないだろうと思う。
だが、いきなり喧嘩を売って相手を怒らせるのは、今の時点では得策ではない。


「・・・何のつもりですか。」

「メシだよ。洋食で良かった?」


手に持っているトレーには、クロワッサンと卵とカフェオレが乗っている。


「食欲がありません。昨夜は飲み過ぎたので。」

「そう。・・・大人しいんだな。目が覚めたらもっと暴れるかと思った。」

「目的は何ですか?」


重ねて聞く。
だが相手は、俯いて笑っただけだった。







「お金ですか。」


目の前の男は、一言も話さない。
ボクは父の資産額を計算してみようと思ったが、今まで経済的な事に関心を持たなかったのが
災いして、見当も付かない。
戻れたら、今後は少しはそういった世俗的な事も勉強してみよう。
母も喜ぶだろうな。
と思いつつ、「戻れたら」という部分を無意識に仮定形にしていた事に自分で怯える。

しっかりしろ、しっかりするんだ。
犯人が入ってくるまでは、冷静でいられたじゃないか。

こういった場合、犯人の顔を見た人質はかなりの確率で殺される。

彼にそんな気を起こさせない為にも慎重に、慎重に対応しなければならない。
無事に帰してくれさえすれば、警察になんて言わない。
短時間にそれを信用させなければいけない。

それに、人を殺すときには相手としゃべっちゃいけない情が移って殺せなくなるから、
なんて何かに書いてあった。ボクも下らない本を読んでいるものだが。

とにかく話さなければ。
知らない人間と話すのはとても苦手だが、碁で生きていく以上社交術など不要な能力だから
それでいいと思っていた。

まさか、こんな場面に出会う時が来るなんて。





「・・・金の、要求なら今両親は中国にいて、」

「知ってるよ。」


即答されて、ああそれはそうだと思う。
彼は塔矢門下ではないが、元名人の国を股に掛けた動向は話題になりやすい。


「でしょうね。緒方碁聖もご存知でしょうね?」

「ああ。」

「緒方さんなら両親に連絡を取ってくれます。それに彼なら警察にも連絡したりはしない。」


実際はこんな状況は初めてだからどうか分からないが、
先走って軽はずみな行動は取らないと思う。

事実既に顔を見てしまった以上、金の受け渡しが成功しようが失敗しようが
ボクを帰すとするなら、彼はプロ棋士生命は諦めねばならないだろう。

それでも構わないと、海外に高飛びして一生楽に暮らせる位の金が引き出せると
そう信じ込ませなければならない。
頭の中で目まぐるしく計算しながらも、ボクは必死だった。

だが。


「目的は金じゃない。」

「・・・?」

「目的はキミ自身だよ。」


では、父に金以外の要求があるのか、いやボク自身という事は違うな。
対局妨害?しかししばらく重要な対局はないはずだが、

と考えてから、目の前の人物のねっとりとした視線に、気が付く。


「好きだったんだ。ずっと。」





男の要求に、眩暈がした。何を言ってるんだ?
安すぎ、ないか?
いやいや、ボクの命が助かる事が最優先なのだからそれはどうでもいい。
取り敢えず男の要求に素直に従う振りをするしかない。
努めて冷静な顔を保ちながら、


「あなたがボクを無事に帰してくれると保証してくれたら、何でも言うことを聞きますよ。」


言った。
取り敢えずボクの鞄も一緒に持ってきただろうから、その中に入っている携帯や
PCで父と連絡が取れるかも知れない。


「ボクが家に連絡します。勿論余計なことは言いません。」


せめてこの場所が特定出来たら何とかなりそうだが、全く分からない以上
どんな形であれ外界と繋がりを持つことが先決だ。

誰か、ボクがいない事にもう気付いているだろうか。
いるだろうな。
警察に連絡はしてくれているだろうか・・・。

もしそうなら、誘拐と気付いて自宅で連絡を待ってくれているのなら
自分の携帯でない方が良い。
確か携帯は逆探知が出来ない。
この家に電話はあるだろうか。
どうやったら上手く話を長引かせることが出来るか・・・。

いや、日本の警察はそんなに簡単には動かないか。
具体的に誘拐されたという確たる証拠がなければいくら父の子であるボクの事だとしても
取り合ってくれないかも知れない。
いや、ならその方が幸いだ。


「うちの者は多分まだ警察に連絡なんかしていません。しても取り合ってくれないし。
 だから、穏便に取引を済ませましょうよ。その方がお互いの為でしょ。」


ガッ!

な?一体?
いきなり殴られた。
何か気に触る事を言ってしまったらしいが、一体何だというのだ?
正しいことしか言っていないはずだ!





それから男は、ベッドの上に乗ってきてボクを押し倒した。
シャツのボタンをはずそうとするのを、体を捩って避ける。


「いやだ、」

「大人しく言うことを聞いてくれよ。」

「ボクにはそういう趣味は、」

「キミの趣味なんか聞いていない。・・・ただ、好きなんだ・・・。」


いやだいやだ、気持ち悪い、本気だったのか?
だとしてもどうしてこんな変態の言うことを聞かなければならないんだ、
頭の中を理不尽な疑問が駆けめぐった時、男がポケットの中からはさみを取り出した。


「・・・何をするんですか。」


答えずにニヤリと笑って、ちゃきちゃきと動かす。
そしてボクのズボンの裾に差し込んで、じゃき、と十センチほど切った。


「な・・・!」

「自分で脱いでくれないのなら、こうすればいい。」

「待って下さい!着て帰る服が、」

「帰れると思ってるんだ?」

「!・・・とにかく、分かりましたから、自分で脱ぎますから。」






−続く−







※どうでしょう、この時点でネタバレですか?






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