春香伝
春香伝











その店は狭い路地の奥にある筈だった。


北野天満宮の前で車を降りて、後は町屋造りというのだろうか。
格子窓の続く道をゆっくりと歩く。

折からの小糠雨に見舞われたが、父は羽織の肩を少し弾いただけで、
これも趣だと腕を組んだまま歩いて行き、緒方さんが慌てて傘を差し掛けた。

僕も自分の鞄から折り畳み傘を取りだして開け、隣に差し出す。


『俺はいい。』

『二人で入りましょう。』

『二人で入ったらどちらも濡れるじゃないか。』

『それではあなたが差して下さい。』


隣の男・・・高永夏は、少し目を伏せて考えた後傘を受け取って、
そして僕の肩に手を置いて引き寄せた。


『真横に並ぶと濡れやすいから。』


聞いてもいないのに言い訳のように呟き、足を早めて父と緒方さんの後を追った。





高永夏と父が初めて打ったのは、父が引退した後、しばらく韓国で遊んでいた時の事だという。

その対局は父の印象にも残り、師匠筋の方と親しいという事もあって、
永夏は今回のプライベートな旅行でも塔矢家へ顔を出してくれた。

それで丁度予定していた京都への旅行に招待しようと言いだしたのは、
きっと緒方さん辺りだろうか。

外国人だからこういった遊びを喜ぶに違いないというのはかなり単純な発想だと思う。
永夏は僕と一歳しか違わず、日本人である僕からしてさほど面白いとも思えないのだ。

それに本来なら、ボクは今回の道行きに同行する筈ではなかった。

永夏が滞在している間は出来るだけ休みを取ってはいたが、今日は東京に残って・・・
進藤と打つ約束をしていたのだ。

碁会所に永夏も連れていけばいい、進藤も永夏と再戦出来れば喜ぶだろうなどと
勝手にプランを組んで悦に入っていたのだが、完全に肩すかしを食わされた。

永夏が京都に連れてこられた以上、僕も来るしかない。
彼の通訳が出来るのは僕だけで、僕達は現在常に一組だった。





やがて僕達は路地の、雨の降りかかっていない部分にも打ち水をされた、
それでも小さな外灯だけがここが店だと教える軒の下に入った。
永夏から傘を受け取って畳もうとした所で、店の人に手を出されて渡す。

先に押しやった彼の背中が少し濡れていた。
この四人の中で一番濡れなかったのは結局自分か、と思うと少し可笑しい。


『狭い店だな。』

『ええ。でもお茶屋というのはこんなものですよ。』


この店に来るのは三回目。
この年にしては多いと思う。

一度目は、 五歳、いや六歳だったか。
よく覚えてはいないが、退屈だった印象だけが強い。

二度目は十一歳・・・。
ある程度ものが分かるようになって、きらびやかな衣装に感動したり器に感心した。
お姉さん達がよく構ってくれたのだが、やはり市河さんのような人とは種類が違って、
白塗りの人形のような顔はどことなく人でないような感じがして少し怖かった。

そして三回目の今日が十六歳という事は、五年毎という事になる。

と、ここまで考えてから、当たり前だ、と気が付いた。
この店は元々父の師匠であった方の馴染みで、その方の〜回忌のような形で
こうして五年毎の命日近くには必ず訪れて父は店主と亡き方を偲んでいるのだった。


「おかえりやす。」


店の女性が上がりがまちで三つ指をついて、僕達の方を向いている。
父と緒方さんは既に靴を脱いでいた。


『なんて?』

『いらっしゃいませ、だって。』


少しでも日本語の分かる者ならこの世界の言い回しの面白さを楽しめるだろうが
生憎永夏は全く日本語に疎いので、折角の花街の言葉も味気ない
共通語に訳すしかない。


「こちらのお方さんは海外からいらしたのどすか?」

「ええ。韓国です。」

「それは遠いとこからようおいでやした。おおきに。」

『遠いところから来てくれてありがとう。と言ってますよ。』


永夏はにっこりと微笑んだ。






広めの座敷に通されて暫くすると、二人の芸妓と二人の舞妓が到着する。


「おいでやす・・・。おたのもうします。」


入り口で手を突く。
永夏は西洋人のように口の中で『ワオ』と言った。


芸妓は父の師匠の馴染みであったという黒い裾模様に三味線を抱えた相当の年の人と、
恐らく父にとっても緒方さんにとっても馴染みなのであろう灰色の着物の人、
地味な色合いはこの集まりの意味をおもんばかっての事だろうか。
それともいつもなのか。

対して、裾引きにだらりの帯、きっちりと日本髪を結って花かんざしを刺した舞妓達は
非常に華やかだった。


『彼女らは?』

『マイコサンと言って・・・』


日本伝統を守る芸妓だと一通り説明すると。
酒席が始まった。






進藤はきっと今頃、和谷くんたちと打っているだろう。
夜は研究会だと言っていた。
研究会と言っても場所は和谷くんの家で、院生時代の仲間内の集まりのようなものらしい。
万が一誘われても絶対に行かないし、それが分かっているから進藤も誘わないのだろう。

それが、口惜しい。
理由もなく。


・・・下唇にしか口紅を塗っていない幼い方の舞妓が、「おたのもうします。」と言って
徳利を持ち上げた。


「いえ。未成年ですから。」

「・・・そうどした。失礼しました。」

「そちらのお兄さんは如何どすか?」


もう一人の妓、尚貞が助け船を出す。


「彼も、僕と一歳しか違わないんですよ。」

「あら。」


若い方はやはりそのまま何も言わずに徳利を置いた。


「失礼ですがあなた方のお年を伺っても?」

「へえ。私が十七、尚鈴ちゃんが十六どす。」


また尚貞。


「ああ、という事は僕たちと同じですね。」

「へえ。」

「ああ、アキラくん。彼女たちに注いで上げなさい。」


芸妓に酌をして貰っていた緒方さんが、こちらの方に声を掛けてきた。


「では、どうぞ。」


さっき置かれた徳利を手にとって、年の順に酒を注ぐ。


「・・・どうぞ。」

「おおきに。」

『おい。』

『何ですか?』

『彼女たちは幼く見えるが。』

『僕達と同じ年だそうですよ。こちらの尚貞さんが十七、尚鈴さんが十六だそうです。』

『酒を飲んでもいいのか?』


・・・そう言えば。
何となくこの商売だから、当たり前だと思っていたけれど。


「彼が、あなた達は未成年だけれど酒を飲んでいいのか、と。」

「舞妓は京都の条例で飲ましてもろてもええ事になっとるのどす。」

「ああ、無形文化財みたいな。」

「へえ・・・そんなものどっしゃろか。」


それを永夏に伝えると、開けっぴろげに感心した顔をした。
ふと、また進藤を思いだした。
こういう席に彼は似合わなすぎるけれど、もしいたら派手なリアクションをするだろう。

彼が偶にこっそりと酒を嗜んでいるのをボクは知っている。
以前一度進藤の部屋を訪ねた時に、どきどきとしているボクを尻目に一人でビールを飲み
(ボクも勧められたが、勿論断った。)さっさと一人で寝てしまったのだ。

ボクはどうしていいのか分からなくて・・・しばらく迷った後、
こっそりと進藤の赤い頬に口づけた。

今思っても顔が熱くなる。
あんなに危ない橋を渡ったのは初めてだ。
もしあの時進藤が目を覚ましていたら、どうするつもりだったのだろう。


『塔矢?』

『あ、ああ、すみません。』

『オレも飲みたい。』

『え、でも。』

『いいよ。国外だから。それとも塔矢先生の手前、まずい?』


父を見ると、緒方さんと何か熱心に話している。
芸妓は三味線の調整をし始めている。


「彼・・・飲んでいいでしょうか?」


尚貞が、優雅に曲げた指先を口元に持って行って、笑った。


「へえ。たんと召し上がっとくれやす。」





元々女の子と話をするなど苦手で、しかもこういういわゆる水商売の人となると
どうしていいのか分からない。
それでもぽつぽつと仕事の話をしながら時は過ぎる。
踏み込みすぎず理解が早くて、やはり同年代の女の子とは全く違う。
むしろ、母の世代の人と話しているくらいの感覚だった。

こちらからは恐らく一番月並みな質問だろうが。


「どうして舞妓さんになられたのですか?」

「へえ・・・。子どもの頃から憧れとしたんどす。」

「凄いな。普通なら高校生の年なのに。」


言ってから自分でも気付いたが、尚鈴がくすくすと笑った。


「同い年やおへんか。うちらはそれでも中学まではほとんど普通どしたから、
 もっとお小さい頃から道をお決めとしたお兄さん方の方が偉いのと違いますやろか。」

「そんな・・・大した事ではありませんよ。好きで続けて来てこうなっただけで。」

「そうどすやろなぁ。うちらもどす。」

「途中でやめて行かれる人とか居ないんですか?」

「それはおります。たいていは置屋に来てもお座敷に出るまでにやめて行きます。」

「辛いお仕事でしょうし。」

「へえ。今はこれが当たり前どすけど。」

『何の話?』


気付けばボクと尚貞ばかりが話していて、永夏と尚鈴はそれを聞いているような様子だった。
だがよく考えれば永夏は言葉が分からないのだから退屈だったろう。
悪戯に杯を重ねていたらしい。悪いことをした。


『彼女たちの仕事の話。』

『そう。』

「お兄さん、お顔が赤こおすけど、大丈夫どっしゃろか。」

「大丈夫でしょう。そこまでは飲んでない。」

「でも・・・。尚鈴ちゃん、冷たいおぶ持って来て。」

「へえ。」


彼女が褄を取って行くと、永夏はその後ろ姿をじっと眺めて、『キレイだ。』
と、実にシンプルで素直な感想を漏らした。


『でもあの帯、重そうだな。』

「あの帯は重いんですか?」

「へえ。普通の帯より長ごおすから重たいと思います。
 せやし、ぎゅっと絞めてますから見た目はキレイどすけど苦しいんどっせ。」

「そうだろうね。」『普通の帯より長いから重いし、きつく絞めてるから苦しいって。』


永夏に伝えると時間差で笑う。


『さっきの子な、話聞きながらこれ折ってたんだけど、何だと思う?』


永夏が持ち上げたのは、箸袋を折って船のような形にしたもの。


「これは・・・何でしょう。」

「ああ、舟型の箸置きどす。可愛いどっしゃろ?」

『うん、可愛い。どうやって折るんだ?』

「尚鈴ちゃんが戻って来たら聞いてあげとくれやす。」


笑いながら言った所で、尚鈴がボクの分のお茶も盆に乗せて戻ってきた。


「ねえさん、おたこおす。」

「はばかりさん・・・。こちらのお兄さんが尚鈴ちゃんにお聞きになりたい事おすそうえ。」

「へえ、何どすやろ。」


永夏がさっきの舟を指さすと微笑んで取り上げ、広げて箸袋に戻した。
細い指が、器用にまた折り畳んでいく。


「まずこう折って、こうして、こう折って、こう。簡単どっしゃろ?」

『簡単だな。』


通訳しなくても永夏は自分の箸袋を持って、どんどん折っていく。


『・・・・・・ならない。』


同じように折っているように見えたのに、最後の帆の部分が、出来ない。
興味が湧いてボクも自分の箸袋を手にとって折ってみた。


「あれ?」


結構自信があったのに、出来なかった。
僕以外の三人がくすくすと笑う。


「もう一度教えて下さい。」

「へえ。」


ああ、なるほど。最後に折る方向を間違えていたわけだ。
永夏は苦笑して頭を振りながら、つづら折りになった箸袋を卓に戻した。
そしてまた舟を完成させた尚鈴の顔をいきなり覗き込んで


『ボーイフレンド、いる?』


僕は呆気に取られたが、尚貞と尚鈴は微笑を刻んだまま首を傾げて
僕の方を見る。


「いや・・・あの、彼氏がいるのかどうか、聞いています・・・。」


酔ってるな・・・永夏。
通訳する僕の方が恥ずかしい。
舞妓にいきなり何を。
でも、尚鈴はくすっと笑って素直に答えた。


「いません。」

『規則でダメなの?』

「決まりとかやのうてそんな暇がおへんのどすわ。」

『・・・残念だな。でも、欲しいとか思わない?』

「忙しすぎて考えた事もおへん。」

『同じ年の高校生とかがデートしてるの見たりしたら羨ましくない?』

「それは、少しは羨ましおすなぁ。」

『やっぱり。』


永夏が我が意を得たりとばかりに頷く。


『どんなデートがしたい?』

「そうどすなぁ・・・。立ったままソフトクリームを食べてみとおす。」


通訳するこっちの身にもなって欲しいものだが、永夏は可愛い!と言って
パチッと指を鳴らし、


『オレが連れて行くよ。次の休みいつ?昼間は空いてるの?』


酔った永夏の行動は・・・何となく進藤に似ていた。
進藤を連れて来ていたら、酔ってなくてもこんな物言いをしそうだ。


「次のお休みは来月どすけど。」

「え?」

「うちらのお休みは一ヶ月に一、二日なんどすえ。」


断る為の方便かと思ったが、どうも本当らしい。


「昼間は毎日お稽古があるんどす。」


三味線や舞やお茶や・・・それで売っていくのだからそれはそうかも知れない。
永夏に伝えると唸っていたが、そう言えば僕達も似たようなものだ。
予め言って置かなければいくらでも仕事は入って来るし、休みを取っても
丸一日碁を打たない日などない。

少し暑いのか、尚貞が帯から小さな扇子を取りだして胸の前で揺らした。
よく棋士がやるようにばたばたとした動きではなく、ほとんど手を動かさずに
ゆったりと波打つように扇いでいる。


『扇ぎ方までキレイだな。』

「彼があなたの扇ぎ方がきれいだと。」

「へえ・・・おおきに。」

『どうやって扇いでる?』

「別に・・・普通に、こうして。」


親指を使っているのだろうか。特にどこも動かしているようには見えないのに扇はそよぐ。


『そういうのも習うわけ?』

「いえ、なんや自然に身についたものどす。」


同じ日本人でも色々と驚く事が多いが、永夏にはもっとそうかも知れない。
思っていた以上にいい土産話が出来たか、と思うと僕も嬉しかった。






最初どうなるかと思ったが、そういった調子で僕や尚鈴の舌の回りも良くなって場は和んできて。
段々みんなの声が大きくなってきた頃、父は女将と話をしに退出した。
灰色の方の芸妓が僕達に声を掛ける。


「ちょっと遊びましょか。『金毘羅船々』は分かりはりますか?」

「知ってるだろう。一番有名だ。」


知ってるわけないだろう!
緒方さん、酩酊。
短時間なのに呂律も怪しいし頭にネクタイを巻き付けそうな勢い。
芸妓は軽くあしらって、僕達に向かう。


「お酒のお袴でよろしおすやろ。これをうちらとお客さんとで取り合いをするのどす。」

「百聞は一見に如かずだ。」


また口を挟んだ緒方さんは上着は既に脱いでいる。
そして更にネクタイを弛めながら膳に袴一つだけ置いた。
永夏が何事かという顔をするのでこれからゲームの実演があるらしいと軽く説明した。

緒方さんと灰色の芸妓が膳を挟んで向かい合い、黒い芸妓が三味線を
弾き始める。
すぐに永夏と僕以外の全員が声を揃えて歌い出す。


金比羅ふねふね、追手に帆かけて、しゅらしゅしゅしゅ・・・


調子に合わせて二人は交互に袴の上に手を出した。
何だか子どもの遊びのようだ。
そして途中で突然緒方さんがぱっと取る。
次に手を出した時、芸妓はそれまで開いていた手を握って拳を作っていた。
何事もなかったように緒方さんが袴を戻し、だんだんテンポを速めて同じ事を繰り返す。

どうも相手が物を取った時は自分も開いていた手を握って出す、
それだけの遊びらしいのだが。

だんだん早くなると緊張感が高まる。
遂に、緒方さんが


「あ。しまった!」


間違えたらしい。


「勝ちましたえ〜。」

「当たり前だ。負けてやったんだから。」

「負け惜しみ。」

「おまえ達は遊び慣れているんだから強くて当然じゃないか。」


そう言いながら「あ、それそれそれ・・・お酒は一気で飲みましょう・・・」
囃子に押されて緒方さんは勢い良く酒を干した。


いーよ!お兄さんは、おつよ〜い!


酒に咽せたのか、顔を歪める緒方さんは馬鹿っぽかったけれど
それでも妙にかっこよく見えるのは何故だろう。


「次は・・・そうどすなぁ。お兄さんと、尚鈴ちゃん、出来る?」

「へえ、ねえさん。」

「えっと僕は・・・。」

「どっちにしろやるんだ。若いもんから先に行け。」

「本気でしはらへんと面白ないのんどすえ。」


何となく断れない雰囲気で、立ち上がる。
まあ簡単そうだったから緒方さんよりは出来るだろう。


金比羅ふねふね、追手に帆かけて・・・


単純だがやってみると結構反射神経がいる遊びだ。
幼い頃これに似た手遊びをしたことがあるような気もするが、すっかり忘れていた。
あれは幼稚園の事だったのか、もしかしたらこの座敷での体験だったのか。

だんだん早くなっていく三味線、十分落ち着いていたつもりだったのに・・・。
完全に虚を突かれた。
ふと見たら袴は消えていて、それに気付いた時には既に開いた手を出していた。


「あ・・・。負け?」

「へえ。」


またみんな大笑いして囃し立てた。
何だか無性に口惜しいが、同時に笑えて仕方がない。


「でも僕は酒は飲めないし。お茶を飲んだらいいですか?」

「馬鹿言え。・・・そうだな。舞妓が負けたら一芸を披露するんだ。」

「例えば?」

「小唄を一つ唄うとか。だからおまえも何かやれ。」


僕が碁を打つぐらいしか芸がない事を知っていて、意地悪く緒方さんが言う。
芸・・・。


「分かりました。では韓国語を話します。韓国の古典童話『春香伝』の一節です・・・。」





「以上です。」


意味は伝わらないなりにも語感の美しさは分かって貰えただろうか。
舞妓たちが拍手をしてくれる。


「ずるいな。さっきからおまえが韓国語を話せるのはみんな承知じゃないか。」

「その詩はどういう意味どすか?」

『おまえ・・・。』


永夏が赤い顔で苦笑いした。
確かに日本語だったら暗唱でもしにくい。
外国語だから言えるような言葉だが、永夏にすれば母国語だから聞いていて痒いだろう。


『オレに言ってるんじゃないだろうな?』

『どうでしょう。』


みんな永夏の反応を見て、恥ずかしい言葉だと分かったらしい。
またやんややんやと囃す。
僕は中国語であと一回罰をやりすごせる、と内心でほくそ笑んだ。


「では次はおっきいお兄さんと尚貞ちゃんどすね。」


永夏は緒方さんや僕がやっていたのを見て飲みこんだらしい。
いそいそと膳の横に移動して尚貞と向き合う。


「チャル・プタッカムニダ」

「おたのもうします。」


もう訳する必要もなく、こういった言葉を必要としない遊びは永夏にも十分楽しめて
なかなか良い物だと思った。


一緒に手拍子をしていると、永夏はあっという間に負けた。


「はい〜お兄さん、罰杯〜!」

『バッパイ?オレも飲むのか?』


永夏はもう結構飲んでいて少し不味いかと思ったが、それでも手拍子に乗って
機嫌良さそうに干す。

それから男女の組み合わせを変えてもう一巡した。
次は緒方さんが舞妓に勝って、唄わせていた。
僕は予想通りまた負けて、誰も分からない漢詩を中国語で唱じたが、拍手をされた。


「次はどうする?」

「そうどすなぁ、もうそろそろ舞いとおすけど、お父さんまだ帰ってはりまへんなぁ。」

「じゃあ最後に尚貞と尚鈴の舞妓対決はどうだ。」

「そんなんどちらが負けても唄やないどすか。きつおすわ。」

「よし!なら永夏とアキラだ。」

「ええ?」


緒方さんが永夏の背中を押して膳の横に座らせる。


「そんな、僕はもう出せる芸もありませんよ。」

「なら飲むか飲みたくなければ勝つんだな。」

「困ります。」

「皆の衆、男のきれいどころ対決を見たいであろう?」


灰色の芸妓や尚貞が手を打ち、地方の人や尚鈴も笑っていた。
緒方さんがすればいいじゃないか、と思ったが、これ以上渋るのも
無粋なのだろうと思って、仕方なく永夏の向かいに座った。


『そういう訳です。』

『次にオマエが負けたら今度は何語だ?』

『それが困るんです。僕にはもう手札がない。』

『じゃあ・・・、そうだな。』


永夏は自分の身体をあちこちと見た後、一点に目を留めて


『・・・オマエが負けたらオレの足の爪を切って貰おうか。』

『は?』


思わず聞き返したが、永夏はどこか焦点の合っていないような幼い顔でへらへらと笑っている。
酔っぱらいめ・・・。
盤面に向かっている時とギャップがありすぎだろう、と思ったが、それは緒方さんもそうかも。


『・・・分かったよ。』

「何て言ってるんだ?」

「爪切りを貸して頂けますか?」

「へえ。よろしおすけど。」

「彼が勝ったら僕が彼の足の爪を切るそうです。」


みんながまたどっと笑う。
尚鈴がすっと立ち上がって、さり気なく出て行く。
すぐに小さな鈴のついた爪切りと半紙を手に戻ってきた。


「粋なお兄さんどすなぁ。」

「え、そうですか?」


待っている間小さく何か爪弾いていた三味線が、金比羅舟々を始める。


こんぴらふねふね・・・


ああ、まずい。
なんだろう、酒に酔っている訳でもないのに集中力がない。
何だか身体がふわふわして。
何だか楽しくて、意味もなく笑えて。

負けたく、ないなぁ。


すっと永夏の手が袴を掴んで引っ込める。
ギリギリのタイミングで拳を出す。
永夏が袴を戻す。

そのまま考えるともなく、僕は袴を掴んで引き寄せていた。

永夏が開いた掌を突き出した。

あ。

と思いながらも、反射神経がついていかず、そのまま袴を戻す。
また開いた永夏の手が袴の上に被せられる・・・。

その時ぴた、と三味線の音が止んだ。


「いつまでやってるんだ。」

「お兄さん、勝負つきましたえ。」


緒方さんにがはははっと笑われて、あ、しまった負けたか、と思ったが
よく考えたら僕の勝ちだった。


「あ。」

『オレ・・・間違えたか?』

『うん。』


また囃されて、僕も勝った勝ったと言いながら永夏を指さして手を打った。

永夏がへにゃりと笑って、酒の乗った膳の方へ行こうと膝を立てる。
でもその足はふらついていた。
今になって酔いが回ったな・・・。


「・・・すみません、もう、これ以上飲ませない方がいいと思います。」

「そうどすなぁ。お兄さんがそう言わはるんどしたら。」

「でも罰はしないと。負け逃げ出来るほどこの世界は甘くないぞ〜。」


緒方さんが脅かすようにおどろおどろしく言うのに、また舞妓達がはしゃいだ声を上げる。


『永夏、もう飲まなくていいよ。』

『でも。』

『自分では見えないだろうが、顔真っ赤だぞ。』

『そうか〜?そうか、なら。』


永夏がいきなり僕の足首を持って引っ張ったので、尻餅をついてしまう。
何とか後ろ手を突いて身体を安定させた所で靴下をひっぱられて脱がされてしまった。


『爪切りを貸してくれ。』

「え?」


尚鈴が心得たように永夏に爪切りを手渡し、僕の足の下に半紙を敷く。


「ちょっ、ちょっと待っ・・・。」

「わははっ!これはいい。見物じゃないか。」

「ほんに。おかわゆらしい格好どすなぁ。」


困った・・・。
いきなり倒されて脱がされて。
これではさらし者じゃないか。僕の方が恥ずかしい。
どちらの罰なのか分からない。

それでもまた三味線の爪弾きが始まり、芸妓さんが何か小唄を始めると
気分が良くなってきて「くるしうない。」と言った。
舞妓さんたちが笑ってくれたので、また楽しくなった。

永夏が片膝を立てたまま、恭しく僕のくるぶしあたりに指を添えて支える。
慎重に爪切りを近づける。
手元が狂って深爪になったらどうしよう。

まあ、いいか。


ぱちん。


爪の小さな欠片が半紙の上に跳ねる。
みんな何故か分からないが、手を打って囃す。

永夏の指が、僕の足の人差し指をつまみ、また爪切りを近づける。

不思議だな。
爪を切られるというのは、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
足の指一本で動きを封じられているからか、いや、人に足を触らせるという事がそうそうないからか。


ぱちん。

ぱちん。


一回音がする毎に騒がれ、それでも脇目も振らず意外と手際よく切っていく。
僕は片足を預けたまま、為すすべもなくずっと俯いていた。
冷たい爪切りが当たる度にぴく、と震えてしまう。
永夏の指に力が入る度に後ろについた手で畳に爪を立てそうになって、慌てて力を抜く。


『おい。』

『何?』

『さっきの春香伝、日本語で何て言うんだ?』


な・・・このタイミングで言わなくても。


「何だって?」

「いや、さっきの韓国語の童話の一節をを日本語で言えと。」

「それは面白い。」

「教えとくれやす。」

「教えとくれやす、気になっとったんどす。」


こ。困る!
永夏には日本語が分からないのだから咄嗟に嘘を吐こうかと思ったが、何も思い浮かばない。


「えっと・・・。」


ぱちん。

あ・・・冷たい・・・。


「・・・君が死んだら、花になれ・・・。」


ぱちん。


「僕も死んだら、蝶に、なる。」


ぱち。


「春の良き日に・・・。」


ぱちん。


「・・・・・・。」

「どうした?」


ぱち。


「・・・春の良き日に、おまえの花びらを抱きしめん。」

「・・・・・・。」

「・・・・・・。」


余程ひかれたと思ったが、女性陣は心底感心したような顔で


「美しおすなぁ。」

「それは、本当に童話なのか?」

「さあ・・・そう習いましたけど。」


永夏は視線は僕の足先に落としたまま、唇だけで笑っている。


「そうや、それでさっき韓国語で言わはった時、こっちのお兄さんお顔赤こしとしたんどすなぁ。」

「そりゃ相当の殺し文句だろうよ。絶対口説かれてると思うぜ。」


緒方さんの冗談に「お熱おすなぁ」と冷やかしの声が飛ぶ。
不覚だ。僕としたことが。
「僕の名前は塔矢アキラです。」で良かったじゃないか。
格好なんかつけるんじゃなかった。

そうこうする内にやっと小指まで切られ終わって、息を吐く。


『もう・・・いいでしょう。』

『あと片方残っているじゃないか。』

「ん〜?こっちの足は次の罰の為に取っておくか?」


その時芸妓が「あ、お父さん、おかえりやす。」
と声を出した。


いつの間にか、父が座敷の入り口に立っていた。


カッと顔が熱くなる。
こんな、裸足の足を掴まれたまま、なんて恥ずかしい格好をしているんだ僕は、
しかも、今はちょっと色々と誤解というか、誤解でもないけれど・・・。

だが、芸妓が


「罰杯代わりに足の爪切って貰とるんどすえ。」


と何食わぬ顔で言ったら、父は驚いた事に軽く頷いて微笑んだ。





それからいよいよ舞を見た。
黒い着物の地方は少し薹が立っているが、とてもいい声だ。

舞妓さんたちが二人で舞い、灰色の方も三味線を弾くらしく合わせている。
母の付き合いで見たことのある日本舞踊より動きが少なく、ゆったりとした
見事な舞だった。


「先生が、お好きだったのだ。」


父がその師匠について話したのは今日初めてだったが、それで背筋が伸び
僕達は舞に見とれ続けた。







「雨は止みましたけど、お供お呼びしましょうか。」

「頼む。」


玄関に出た途端に、あんなに酔っていたと思った緒方さんはきゅっとネクタイを絞め
しゃっきりと背広を着て、いつも通りの様子に戻る。
なんだか、大人だと思った。
少し見直した。


「永夏君は大丈夫だろうか。」

「若い衆呼びましょか?」


対する永夏はにこにことしながらも足元がおぼつかず、それでここまで車を呼んでくれる
事になったのだろう。
確か前回は少し町並みを楽しんでから車を拾ったような覚えがある。


「いえ。車までなら何とかなります。」


大きな子どものような熱い体温を背に感じながら、苦笑する。
その時芸妓と何か話していた尚貞と尚鈴がこっぽりを履いて、こちらにやって来た。


「おおきに、今日は楽しゅおした。」

「こちらこそ楽しかったです。ありがとう。」

「お酒上がれるようになったらまた来とくれやす。」


年上の尚貞が僕に、年下の尚鈴が永夏に扇を差し出した。
現金なもので、今まで泥のように僕にもたれ掛かっていた永夏の背筋が伸び、
にっこりと笑って受け取る。

僕も、扇子の先を持った右手と、その手の袖と褄を支えている左手に少し見とれた後、
丁寧に受け取った。





車に乗った後、永夏は嬉しそうに扇を広げた。
香でも焚きしめてあるのだろうか、梅か何かのようないい香りが漂う。
顔に近づけた後、尚鈴がしていたように優雅に顔を扇ごうとしていたが
やはりバタバタした動きになりそれに自分で笑っていた。


何となく、進藤のようだ。

と思ってから、しばらく進藤の事を全く忘れていたことに気付いた。


三味線、屏風、煌びやかな衣装、花かんざし。
白い顔に、赤い紅。

浮き世離れしたあの空間では現世の事は見事に遠ざかり、
何となく、振り向いてもあの店はもうないのではないか、
芸妓や舞妓も雨露のように消えてしまったのではないかと。

手の内に残る小さな扇が、却ってそんな妄想を呼び起こす。


それほどに楽しかった。

永夏も明日になればあれは夢だったのではないかと疑うだろう。
僕の足の爪を見て、片方だけが短い事を確認したがるだろう。

見せてやろうかどうしようか。
それとも今夜中にもう片方も切ってしまおうか。

ことりと肩にもたれ掛かってすぅすぅと寝息を立て始めた永夏の頭の重みを感じながら
僕は楽しく迷っていた。


でも少なくとも進藤に今夜の話をすることはきっとあるまい、と思った。







−了−








※90000ゲット&申告下さったししゃもさんに捧げます。
  何なんでしょうか。漫然と遊んでいる永夏とアキラさん。

  リクは
 
  
  「ピュワーで可愛いヨンアキ」。
  お互いが、お互いの意外と可愛いくて純粋な面に気が付いてドキドキしてる感じ。
  歳相応な二人、でしょうか。
 

  出ました!私の苦手な抽象リク(笑)。そして漠然とでも思ってらっしゃったのとは
  全く雰囲気違うと思います。自信アリ(笑)今思うと歳不相応この上ないな・・・。
  今回難しかったのは、可愛い永夏がなかなか想像つかなかったのと、北斗杯関係は使いすぎたので
  シチュエーションを変えようと自分で決めたからです。
  この「可愛い永夏」というのは実はkai さんに頂いた「新年永夏(中国の風習を知らなくて、
  なんだろ?と思っている)」から来たのでした。
  「どこがやねん」と聞こえそうですが


  キスケさんビジョンの「ピュワーで可愛い」を見てみたいな、と(笑)。
  なので、その点についてはお任せしてもいいですか?
  ヒカアキっていう前提はないほうがイメージし易いのかな〜。
  アキ→ヒカで、まだ二人の関係は出来あがってなくて。
  ヒカルのことを「生涯のライバル、かつ一生想っていく相手」と思っていたけど、
  永夏に対する感情が変わってきて・・・、という感じ。
 

  キスケビジョンでいいっすか?!という事で個人的趣味に走ってしまいました。
  折角なので余所様では見ないタイプのを書いてみようかと。
  あと、ずっと前にししゃもさんと板でお約束した「アキラさんの足の爪を切る永夏」は入れたかった。
  入れたけど苦しい(笑)
  というかそんなことに気を取られている間にリクを消化出来ているのかどうかさえ非常に怪しい。

  色々と苦しかったですがってか今も心苦しいのですが、
  舞妓さんとのやりとりとか書いていて凄く楽しかったです。
  こんなんでいいかなぁ?どきどき。
  ししゃもさん、ご申告&ステキリクありがとうございました!遅くなってすみません(汗)
  




  ※追記
   ししゃもさんに次のような嬉しいコメントを頂きました。


  やっぱりアレですかね、アキラさんはピカにはこの日のことを話さないように、
  永夏は秀英にもこのことを話さないのかなー。
  それでずっと後日、国際棋戦関連か何かで食事をする時に、
  アキラさんがさりげなく箸袋で箸置きを折ってみたり。
  それを永夏がみつけて、2人でクスクス笑ってみたり。



  そうそうそう!まさにそんな感じ。
  このコメントで茫洋としていた雰囲気が一気に!引き締まりました。ありがとう!
  ピカとは別次元で仲良しなヨンアキで居て欲しい。
  ってちょっと百題の「マヨヒガ」と似てるかな?


 







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