Fly me to the moon. ぱちり。 「う〜ん・・・。」 目の前で腕を組んで、目を細める。 10の五だ。10の五だろう。 ぱちり。 10の五。 次は・・・16の二だ。 ぱちり。 「う〜・・・ん・・・。」 考えているのか、考えている振りなのか。 とす。とす。と、進藤が扇で掌を叩く音が微かに響く。 古びた塔矢家の縁側から、僕は庭を眺める。 今は海棠桜が花盛りだ。 染井吉野より遅く咲くこの桜は、僕の家のちょっとした自慢でもある。 僕が子どもの頃にあったのは枯れてしまったのでこれが二代目だが。 春の日射しが温かくなって来たとは言え、風が吹けば肌寒い。 気の早い若者はもう半袖を着ているが、僕は袖口をきっちりと止めて アーガイルのチョッキを着ていた。 ぱちり。 「で。どうするよ。」 「・・・何がだ。」 「月だよ月。」 「え・・・。」 「申し込んだの?」 ・・・・・・・・・・ 「ふざけるなっ!」 「オマエこそ何寝言言ってんだよ!ここは絶対○○だっての!」 「そんな事をしたら××××だろう!少しは考えろ!」 「ああっ?てめえバカ?バカだろう!」 「はぁ?誰に向かって言ってるんだ?」 「オ・マ・エ・だ・よ!塔矢のバーカバーカ!」 「・・・・・・!」 「バーカーアーホーマーヌーケー!」 「・・・帰る!」 「あ、反論出来ねえから逃げるんだ!」 「何を言っているんだ!キミみたいな程度の低い人間と同じ空気を吸っていたら ボクまでバカになるから避難するだけだ!」 「んだとぉ?!コノヤロウ!」 鼻の頭に皺を寄せて歯を剥き出した進藤は、チンパンジーに似ていた。 「・・・はぁ〜・・・・・・。」 「もう引きずるのは止せ。」 「おまえ・・・他人事みたいに言ってくれるなぁ・・・。」 「他人事だからな。」 「勝てたんだ・・・あの時、迷わなきゃ。」 「実際負けたんだから仕方ないだろう。」 「うわ・・・きっつ・・・。」 「そうやって後悔している間に精進して、次回の対局に備えた方が前向きだと思うが。」 「まあ・・・なぁ・・・。分かってるよ。おまえはいつも正しい。」 それでもそうやって人前で弱音を吐ける君が羨ましかった。 「・・・うん?」 「いやこうやってさ、いつもおまえと打てるのって幸せだと思ってさ。」 「何だ急に。」 「例えば今日、オレがちょっとした用事でドタキャンしたとするだろ?」 「ああ。」 「んでおまえに何かあったりしたら、オレ思いっきり後悔すると思うのな。」 「それはボクも同じだな。」 「だろ?だから、こうやって打ってると、安心。 おまえと打ってる時だけホッとする。」 「・・・・・・。」 「おまえは急にいなくなったりしないって。」 「・・・心配するな。キミに振られてボクが急死したりしたら、牡丹灯籠持って キミの所に訪ねていくから。」 「何ソレ。」 「・・・いや、いい。」 「幽霊になって出てきてくれても普通に打つけどさ、でも・・・死ぬなよ?」 「だから縁起の悪い事を言うな。」 「や、頼む。オレより先に死なないでくれよ。」 「・・・・・・。」 「な。この通り。」 急に僕に向かって手を合わせた君は、その年寄りじみた仕草と相まって 僕に不思議な感覚をもたらした。 君の年を取った時の姿が、見えたような気がしたのだ。 大丈夫。君は皺だらけになるまで生きているよ。 そして僕もそれを見届けられる程には。 ・・・・・・・・・・ 「・・・んだよ。」 ふと我に返ると、その時の印象のままの進藤の顔。 タイムスリップしたようだ。 20歳前のあの時から、突然ワープしたような。 「気持ち悪いな。何笑ってんの?」 実際にはあの時から現在までには数十年の月日が横たわっている。 時に別々に、でもほぼ共に歩んだ僕達の歴史。 ただ、進藤の顔が老人のように見えたあの瞬間を妙に鮮明に思い出してしまって、 その顔がまた今の顔とそっくりで。 時間旅行をしたような奇妙な感覚に何だか笑えてしまったのだ。 「んでどうすんだって。」 「月旅行か・・・。申し込まなかったよ。」 「何で?ずっと月に行きたいって言ってたじゃん。」 「行きたかったけれどね。」 「金足りないなら貸すぜ?」 確かにおいそれと出せる金額ではないが、君に借りるほど落ちぶれちゃいない。 引退するまでにかなり稼がせて貰ったし、君と違って無駄遣いもしていないから 自分でもちょっとした財産だと思う。 それは君もほぼ同じだろうけれど。 「・・・何だかこの年になってそんなに遠くに行くのも。」 「遠いなんてもんじゃないけどな。でもずっと夢だったのに。」 「月でぽっくり、なんて事になったら迷惑を掛ける。」 「それこそおまえの本望じゃねえの?」 そう・・・なんだけどね。 どうしてこんなに月に焦がれるようになったかと言うと、恐らく君の影響のような 気もするんだ。 けれど実際月旅行が実現する時代になっても君は興味もなさそうで、僕も何だか。 君があれ程憧れていたのは、 時折やけに切なげに見上げていたのは、 どの月だ? 「覚えているか?」 「うん。」 「何がって聞かないのか。」 「オレより先に死ぬなって話だろ?」 「・・・ああ。」 付き合いもこれだけ長いとちょっとした超能力も身に付くようだね。 「それで僕が月で死んだり、帰ってきて君が死んでたりしたら後生が 悪いから・・・・・・一緒に行かないか。」 「オレが?月へ?」 「そう。」 「オレはいいよ。」 「どうして。」 「いやこの年だしさ。」 「同じ年だろう。」 「そうだけど。あっちゃこっちゃガタ来てるし、おまえより月や船の中で死んじまう 確率高いよ。」 「まあ、なあ。」 「他人事みたいに納得してくれるなぁ。」 「他人事だからな。」 ぱちり。 思い出したように進藤が石を置く。 最近は真剣勝負というのもほとんどしない。 若い者には敵わないし。 こうやって日々進藤と「打とう。」と言って縁側に碁盤を出しても、 気が付いたら過去の棋譜並べになっていたりする。 それでも楽しい。 こうやって進藤と打っているのが、楽しい。 何十年も打っていて、それでいて飽きない相手と人生の初期に出会えたのは 本当に僥倖だったと、今でも僕は思う。 勿論当人には言わないが。 ぱちり。 ぱちり。 石は増える。 ああこれは、このまま行けば三コウになる盤面だ。 進藤と何千と打ったが、彼との対局ではこの一回だけだった。 僕は珍しい、と思っただけだが、進藤は随分はしゃいでいたものだ。 「・・・月に、行けよ。」 ぱちり。 「そうだな・・・。だから、君も行くなら申し込むって。」 ぱちり。 「奢ってくれるなら考えてもいい。」 ぱちり。 「バカ言うな。」 ぱちり。 「だって・・・。」 ・・・? 途切れた言葉と共に、石を持ち上げた進藤の手が止まっている。 何事かと思って顔を見ると、それも石像のように固まっている。 「どうした・・・?」 「・・・・・・。」 ・・・ぱちり。 指先が下ろされたのは、棋譜とは違う、新しい場所。 「あ・・・。」 それは、思いも寄らない。 お互いに常に最善の一手を打ち続けて三コウになったとずっと思っていたが。 「・・・な?」 進藤が、笑う。 出会った時から変わらぬ、お日様のような笑顔で。 「こ・・・。」 久しぶりに驚きすぎて声が出ないという体験をした。 ・・・こんな手が、あったとは。 この棋譜は公開されて、何千何万の人が見たと思うが。 多分、気付いたのは進藤が初めてだ。 今の一手で、盤面は一気に傾いた。 もう終局までの道筋は見えたようなものだ。 三コウになんかならない。 白の、進藤の、二・・・いや三目半勝ちだ・・・。 ・・・何と言っていいのか、「おめでとう」なのか、「すごいな」なのか、 もう一度進藤を見ると、目を閉じている。 うつら、うつらと寝ているようだった。 この所偶にこういう事はある。 あんまりぽかぽかと気持がいいと、進藤が船を漕ぎ始めたり、 僕がぼうっとしてしまったり。 まあいい。 正面切って褒めるのは照れくさいしちょっと恥ずかしいし。 「進藤・・・今のが多分・・・『神の一手』だよ。」 ぐらり。 答えるように、進藤の身体が揺れる。 揺れて傾いたと思ったら ことりと横に倒れた。 昔は筋肉質だった身体も、今は枯れた木のようで。 小さくなったものだな、と思った。 ・・・家族を呼んだものか。電話をしたものか。 でも日溜まりの中の進藤は、この上なく幸せそうに眠っているようにも見える。 僕はもう少しだけ二人で過ごしたくて進藤の碁笥を引き寄せ、 終局までの筋を並べ始めた。 ぱちり・・・。 ぱちり。 月で会おう。・・・な。進藤。 −了− ※130000踏んで下さいましたとらさんのリク。 お題は「臨終ヒカアキ」でした。 ○二人はもう じいさん(か、そのちょい手前) ○進藤、塔矢、どっちが先に逝ってもOK ○ラブラブじゃなくてよし (この期に及んで気持ちを伝えてないままでもいいの) ○死にネタだけどハッピーエンド ○どシリアス&切な系 いや、死にネタでハッピーエンドって(笑) でも基本的に死にネタを避けてきたせいか、逆に書きやすかったです。 とは言えどうも淡々とした感じになっちゃいましたが。 もうこの年になるとですね、号泣とかしないと思うんですよね。 「あー、大往生じゃね。」と普通に。 逆に切ないかどうかと言われると困るんですが(笑) 牡丹灯籠のくだりでうっすら告白してんですが、進藤が気付いたかどうかはナゾ。 まあそれもどっちでもいいって年です。 ということで、これで良かったでしょうか。 とらさん、キリ申告&リクありがとうございました! |
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