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欲望 来るべき時が、来たか。 私は喪服の腕を組んだ。 目の前には弟弟子と、妹弟子。 弟弟子の方は、緒方精次、16歳。 妹弟子の方は、芹澤明子、18歳。 共に学校の制服を着て、かしこまって正座をしている。 師匠の葬式に恐らく相応しくない話をするつもりなのだろうが、それは仕方がない。 今言わねば我々はバラバラになって、もしかしたら会う事も無くなるのかも知れないのだから。 彼等は10の頃から師匠の元に通い始め、緒方君の方は自宅が近いのに ほとんどここに住み込み、ここから学校に通っていた。 明子君の方は兄上がプロ棋士だと言うのに何故かこちらに足繁く通っている変わり者の院生だ。 実は理由は分からなくもない。 この二人には、本当に頭を悩まされた。 しかし我々の関係を繋いでいた師匠が他界した今、彼等は何処か、私の知り得ない世界へ 二人して羽ばたいて行くのであろう・・・。 最初に師匠の夫人である方に示唆を受けたのは、いつだったか。 いや確か、明子君が中学生で緒方君が小学校6年生の頃だった。 彼等は夏休みと言えば師匠の家に居続け、という状態だった。 しかし二人とも騒がしい子どもではなかったので目障りでもなかった。 実は私とて涼しい早朝の内に来ては師匠に打って貰い、朝食まで頂いていたのだ。 その後手合いがあれば棋院に、指導碁があればそちらに行き、 終わればまた戻ってくるという調子で、寝る時以外は自宅に戻らない生活であったように思う。 当時既に老いていた師匠と、もうタイトルを狙えると言われていた私では 棋力に差はなかったのではないか、と未だに自惚れはする。 それでも師匠の打ち筋にはまだまだ学ぶべき所が沢山あり、足が離れる事はなかった。 私は貪欲にも、彼の全てを奪いたかったのだ。 そんなある早朝。 「塔矢さん・・・。」 「何ですか、奥さん。」 「実は、明子さんと緒方君の事なんだけれど。」 「ああ、まだ起きて来ていないようですね。」 「ええ・・・。」 珍しく言い淀む顔が曇っている。 「・・・何か?また喧嘩でもしましたか?」 「いえ・・・。そうね。あの子達を起こして来て下さる?」 「は・・・構いませんが・・・?」 「それで、分かります。」 何が分かるというのであろう。 それに「あの子達」という事は、明子君も泊まり込んでいるのか。 どの部屋か分からないがまず緒方君を起こせば場所も分かるだろうなどと考えながら、 私は彼が起居するのにあてがわれている部屋に向かった。 「緒方君。私だ。」 襖の外に立って声を掛けると、中からは寝ぼけたような呻き声が聞こえる。 相手が小学生の少年だという気安さから、私は何気なく襖をからりと開けた。 「緒方君・・・。」 私はそれ以上声が出なかった・・・。 一つの布団にくるまるように、緒方君と明子君が眠っていた。 この二人は常々姉弟のようによく言い争っていて、仲が良い事だと思っていた。 実際暑い日の日中などは二人で並んで座敷で昼寝をしていたりして それを微笑ましくも思っていたのだ。 だが、今。 二人とも布団から出た腕と肩は剥き出しで、明子君も下着姿の様に見える。 姉と弟にしては。 「・・・あ・・・。塔矢先生?」 声変わりしていない幼い声に、私はふと我に返った。 少年が、少年特有の薄い体、腕より細い二の腕を見せて起きあがっている。 見える範囲ではやはり下着姿なのではないかと思われる。 目を擦る無防備な仕草が愛らしい。 ・・・隣に裸の女が寝ていなければ。 明子君は勿論女というにはまだ早い、少女ではある。 しかし、やはり緒方君より少し上背もあるし、体も女性らしい丸みを帯び始めていると思う。 まだまだ子どもだと思っていたが、こうしてしどけなく眠っている姿を見ると。 「明子、明子、起きろよ。」 片手で寝ている肩を揺らしながら、もう片方の手で枕元の眼鏡を探す少年まで 「男」に見えてしまう、ほど。 「ん・・・あ、塔矢先生・・・。」 無頓着に肘を突いて上半身を起こし掛けた明子君の、膨らみかけた胸が見える前に 私は二人に背を向け、「朝食だ。」とだけ言って居間に戻った。 居間では机の上に食器を並べながら夫人が物問いたげな視線をちらりと寄越したが、 私は何も言わなかった。 言えなかった。先程の事を、どう判断して良いのかまだ分からない。 ・・・せめて二人がもう2〜3歳年若かったら、本当に微笑ましい光景だったかも知れない。 逆に同じくらい年上だったら、怒鳴りつけても良い所だった。 微妙な年頃だ・・・。 ませているとは言っても緒方君は小学生だし、まだ体が出来ていない。 逆に明子君は中性から抜け出して少し娘らしい体つきになって来たようだが、 中身は本当に幼いというか無垢なのだ。 あの二人が裸同然で寝ていたからと言って何かあるとは考えがたい・・・。 それでも良くない事だとは思うし、習慣化しない内に引き離した方がいいかも知れない。 なのにそう言えないのは。 「おはようございます。」 「おはようございます、遅くなりました。」 ・・・当の二人が全く悪びれないからだ。 二人とも先程のだらしない気配は見事に払拭してきっちりと釦を止め、 極々当たり前にいつもの席に着いた。 緒方君は元より、明子君の方にも私に裸を見られた気まずさなど存在しないかのようだ。 なので逆に、私の方が厭らしく深読みしすぎてふしだらな事を考えてしまったかのよな 後ろめたさを覚えてしまう。 私は今まで全く気付かなかった。 と云う事は、師匠の夫人は独り、朝食の席でいつもこんな思いをしていたのだろうか。 私は夫人の方を見る事が出来なかった。 姉弟のように見えた彼等を、さもしい目で見てしまうのには理由がないではない。 それは、その事の少し前であったろうか。 研究会前に三々五々打っていた時の事である。 「そんな事を言うなら、君のこの手の方が甘かったじゃないか!」 「まっ!失礼しちゃう!年下の癖に『君』だなんて呼ばないで!」 騒々しい気配に向かいに座っていた別の兄弟弟子が苦笑を漏らした。 「まったくあの二人は、仲が良いと云うか悪いと云うか。」 「犬も食わぬと言うじゃないか。」 勿論わざと間違えたのだ。その時は。 弟子の中で飛び抜けて年若い二人は、良い碁敵でもあった。 二人とも優れた感性を持っているが、特に緒方君は記憶力も洞察力も並外れていて 将来が楽しみな器を感じさせる。 彼に足りないのは経験。 緒方君も明子君のように院生になって、沢山の仲間と打てばもっと強くなるかも知れない。 その話をしようと思ったら、少年は角の人気のない座敷に私を誘った。 特に人に聞かれて困る話ではないがと思いながら、院生試験受験を勧めてみると。 「・・・だって、明子がいるから。」 緒方君は、唇を尖らせて姉弟子が鬱陶しいのだと訴えた。 私にだけ見せる子どもじみた表情だ。 「年上の人を呼び捨てにするのはどうだろう。」 「塔矢先生はどう思います?」 「何がだね。」 「ぼ、俺の方が、明子・・・さんより碁の才能があると思いませんか?」 「さあ・・・今の時点で比べる事に意味はないと思うが。」 最近一人称を「僕」から「俺」に変更して粋がっているが、所詮子ども。 負けず嫌いは人一倍だ。 尤もそれは勝負師に絶対必要な要素だと思う。 「先生が、見てくれる碁は明子さんのより俺の方が多いです。」 そして観察力が鋭い。 確かに緒方君の碁は、興味深い。 だからと云って、他の兄弟弟子や明子君の碁よりよく見ては角が立つので その様にはしていなかったつもりだが。 「そうだったかね。」 惚けると、緒方君が眼鏡の奥から、何か、訴えかけるような不思議な視線を寄越した。 いつもは大人相手でも物怖じせず、冷ややかな程に怜悧な目つきが可愛げがないと 他の弟子に陰口を云われていた事もある。 そんな目が、今は幼い子どものように潤みそうになって、無心で私を見つめている。 いつもの緒方君ではないようだ。 「先生・・・。」 怯えるように近づいて、急に私の首に囓り付くように、抱きついてきた。 この少年がそんなに幼い行動を見せたのは初めてで私は戸惑ったが只、 彼は今酷く寂しいのだな、と思った。 そこで取り敢えず抱き寄せる。 肩越しに見えた半ズボン、覗いた白い腿、膝の裏、弛みのない真っ白い靴下、 に茫洋と目を落とす。 この子は本当に外で遊ばない子だ、と何となく考えていた。 「・・・先生、俺、先生にはもっと俺の碁を見て欲しい。」 「ああ、見させて貰うとも。」 「そうじゃなくて、明子よりも、誰よりも。」 離してくれるかと思いきや、益々強く私に抱きついてくる。 子どもの扱いに慣れていない私は片手で抱き寄せながら、もう片方の手をどうしようか随分迷ったが 結局緒方君の頭に置いて髪をそっと撫でた。 日本人にしては細く茶色い髪は、思ったよりも柔らかかった。 「・・・緒方君、ご両親は寂しがっていらっしゃらないのかね?」 本心は、彼の方が親を求めているのだと思ったのである。 何と言っても小学生、近くとは云えこんなに長い間親元を離れているというのは大きな経験だろう。 自分で自分の進むべき道を決め、自分で選んだ事を誇りに思っているのは分かるが 彼の精神は自身が思うほど剛くはないのではないだろうか。 彼だけを見つめ、甘えたいだけ甘えさせてくれる親が、まだ必要なのではないだろうか。 「偶には家に帰ってみたらどうだろう。」 緒方君は私の胸に顔を埋めたくぐもった声で、 「帰ってますよ。」 え?そうだったか? 「先生が仕事でいない時に。」 ああ、それで常にこの家に居るような気がしていたのか。 いやでも。それはどういう。 「・・・僕が院生試験を受けない本当の理由は、少しでも、」 『僕』・・・。 その時背後の廊下で、タンッ!と大きな音がした。 驚いて振り向くと、そこには座敷にいたはずの明子君の姿があった。 人から、あれ程黒いものが出るものだろうか。 そこにだけ陰が射しているように、暗い空気を纏っている。 白い頬に血が上り、吊り上がった眦にも紅が差していた。 青い焔が燃え上がりそうな目で私を睨む。 前々から皆が美少女だ云うのを聞いてはいたが。 中学生のこの時の明子君程美しいものを私は見た事がない。 睨まれているのも忘れて、思わず見惚れてしまった程だ。 「・・・何を、なすっているの?」 凄絶な表情からは想像も付かぬ程、柔らかい、鈴を転がすような声が余計に怕かった。 「い、いや。」 慌てて緒方君の体を引き離す。 いや、何を、私はいい年をして中学生の少女に怯えているのだ。 子どもらしい、たわいのない独占欲ではないか。 少女と入れ違いに部屋から出る時に、 「・・・油断も隙もない・・・。」 と呟かれた様な気がした。 何か非常に不本意な誤解を受けているような気がしたが、言い訳をしたくもないので 私は何も言わずその場を立ち去った。 そんな事があった直後だったので、私は二人が抱き合うようにして寝ていたのに 納得もし、だからこそ必要以上に戸惑ってしまったのだ。 人知れず胸を痛める私をあざ笑うかのように二人の親密さは深まっているようだった。 しばらく後、こんな事もあった。 それは緒方君が非常に調子が良く、私も他の者も彼を褒めそやした日だったと思う。 そして大っぴらに明子君が泊まる日だった。 二階の緒方君の部屋の斜向かいの部屋に布団を用意したが、 寝間着を着てはしゃぎながら連れ立って階段を上がって行く二人を見ると、 きっと同じ部屋で寝るのだろうと察せずにはいられない。 「二階の、奥の座敷の碁盤を取ってきて下さい。」 二人が上がった後、夫人が静かに言った。 こんな夜に、しかも師匠ではなく夫人が古い碁盤に用があるとも思えないので 彼等の様子を見て来いという心なのだろう。 私は正直あまり関わりたくなかったが、そのまま立ち上がった。 二階の、Tの字になった奥に緒方君の部屋はある。 だから彼の部屋の前を通らなくて済むのは有り難いが、階段を上っている最中で もう声がした。 普段、声を立てて笑う事などほとんどない緒方君の、大きな笑い声。 「やめろって、明子!はははっ!」 「うふふ。緒方君、ここが弱いのね?」 「いやだ、いや、あ・・・あはははっ!」 擽り合いでもしているとしか思えない会話。 実際そうなのだろうと思う。 でも、何か緊迫感を含んだ、秘密の儀式の様な淫靡な空気が漂って来るような気がするのは、 私の中の何かが歪んでいるせいなのだろうか? 「ありましたか?」 「はい。これで良いでしょうか。」 「ええ、そこに置いておいて下さい。」 夫人はやはり碁盤には無関心のようだ。 しばらく気まずい沈黙が流れた後、思い付いたように茶筒を取り出す。 急須の蓋を取り、コンコンと茶葉を落とし込む。 夫人が手を動かしている事によって気まずさは減ったが、やはり我々には 話す事がなかった。 恐らく彼女は、あの二人の仲の良さが余って、あるいは悪巫山戯が過ぎて、 ご両親に申し訳が立たないような事になるのを恐れているのだろう。 だが、それを口に出すことが出来ない。 あんなに行儀の良い、無邪気そうな二人がそう言った事になるなどと、 想像している自分を嫌悪している。 だが話しづらいのは私とて同じだ。 セクシャルな会話に慣れていない。 ましてやその相手が、若い頃から世話になっている母親の様な方となると。 どうするのが一番良いのだろう。 今時の子どもだ。学校でちゃんとした性教育を受けているだろうし、 二人とも聡明なタイプなのだから、間違いはないと思う。思いたい。 もしそうなら分かってしている単なる悪巫山戯であろうし、 それを注意すれば自分が如何にも厭らしい大人の様ではないか。 しかし、もし二人が、他者が思うほど理性的でないのであったら? 姉弟の様に見える二人の関係が、実はそれ以上の物であったら? 言った方が良いのだろうか。 だが言わずに済むのなら言わずに済ませたい。 自分の在り様を崩したくないという、大人の身勝手な保身であるのは分かっている。 それでも私にはまだその勇気が出ない。 生身の自分を曝したくない。 師匠の夫人もきっと同じだ。 茶が入り、湯飲みで湯気を立て、その湯気が消えても私達は物言わぬままだった。 それから更に数日後、私は座敷で師匠と打った。 この人は碁以外の事には無頓着と言うか無関心で、緒方君と明子君の事に 気付いているのかいないのか。 恐らく気付いていても動かぬであろうし、気付いていなくとも夫人は相談せぬであろう。 師匠の家は広い日本家屋で、庭を挟んだ向こう側にも座敷が見えた。 それは家の端で茶室仕様になっている。 ほとんど使われる事がないので、偶に明子君がそこで寛いでいるのを私は知っている。 今日もふと見ると、明子君が横顔を見せてぺたりと座っていた。 日溜まりの中、膝を開いて女の子特有の足を外に向けた座り方をして後ろ手を突いている。 珍しい、人前では見せない姿だ。 庭のこちら側に藪があるので、向こうからは見えづらいのを良いことに、私はしばし見惚れた。 何となくちらりちらりと眺めながら打っていると、その内に菓子盆を持った緒方君が 廊下に現れた。 夫人に貰ったのであろう、山なりに積んだあられを崩さぬように そろそろと歩を運んでいるのが愛らしい。 やがて奥の茶室に到着し、明子君の前に置いた。 見ている限りでは緒方君は明子君に声を掛けなかった様に思う。 明子君も緒方君に一瞥だにくれず、勿論膝を正す事もなかった。 暫くそのままで居た後、す、と手を伸ばして明子君の白い指が当たり前の様にあられを摘んだ。 それを見て緒方君も思い出した風に手を伸ばす。 二人はしばし黙々と菓子を食っていた。 何となく、物慣れた夫婦の倦怠の様に見えて、胸がざわついた。 ぱちり。 師匠の節だった指が、白い石を置く音がして、私は盤面に目を落とす。 予想していた位置だったので、少し考えるそぶりを見せてから予定通りの場所に黒石を配し また庭に目を戻す。 二人の様子は先程と変わらなかったが、やがてあられに飽きたらしい明子君が ぺろりと指の塩を舐めた。 そして物憂げな、しかし躊躇いのない仕草で少年のシャツの釦に手を掛ける。 緒方君はそれを拒むでもなく、手伝うでもなく、少女が存在しないかの様に あられを摘み続けている。 その内に少年は上半身を裸にされ、促されて立ち上がった。 明子君の指が緒方君のズボンの隠しに伸び、ゆっくりと釦を外す。 自分の動悸が少し早くなっている様な気がして、私は胸に手を当てた。 ぱちり。 また盤面に戻る、今度は少し予想外の手だった。 途端に私の世界は白と黒の石で埋め尽くされ、しばし庭の向こう側の世界を忘れた。 ・・・ぱち。 どうも、最善の一手ではないような気もしつつ、それ以上何も思い浮かばず 黒い石を打つ。 それから思い出してもう一度庭の方に目をやると、向こうの座敷では 少年は既に眼鏡と白い靴下以外一糸纏わぬ姿にされて横を向いて立ち、空を眺めていた。 少年らしい、無駄な肉のないほっそりとした体。 特に何か運動をしているという話を聞いたことはないが、非常にバランスが取れていると思う。 座敷に忽然と現れた白いオブジェは、大理石の彫刻かマネキンか、 何せ日本家屋にはあまり似合わぬ、などと非現実的な事を考えて、 私は彼の全裸を目にしてもさほど狼狽していない自分に驚いた。 盤面に目を戻す。 勿論動いていない。 ただ、あの明るい庭から目を戻すと、師匠と自分の居るこの座敷は暗い。 随分と、冥い。と思った。 目が慣れて来た頃、再び庭を見ると、また眩しい。 眩しい庭の向こうの日溜まりで、相変わらず立ち尽くす少年と、その下で座す少女。 何が始まるのだろう。 何か始まるのだろうか。 恐れる自分と・・・少し期待する自分が居て、私は己の心が少し恐ろしくなった。 妙に間延びしたように感じられた時間の後、少女がやっと動いた。 少年の股間に手を伸ばし。 そこに下がった可愛いものを、ぱちん、と指で弾いたのだ。 それは実に、実に詰まらなそうな表情で行われ、 少年も眼鏡の奥で、少し眉を顰めただけだった。 私は少なからす驚いたが、しかし相当に安心をした。 あの二人には、何もない。少なくとも今の所は。 性に目覚め始めた少女が、たわいもない興味で身近な少年の体に悪戯をしてみただけ。 少年もそれを分かっていて、諦念を持てそれを受け流している。 としか思えない。 それ以外何者にも見えなかった。 初めて二人の朝を見て以来、何処か不気味な、魔物じみた気配を感じずにいられなかった 少年と少女は、それ以前のよく知っている、無邪気な二人に戻った。 ぱちり。 慌てて盤面を見る。 「・・・・・・。」 局面はずっと自分が良いと思っていた。 特に打ち損じがなければ、勝てると。 しかし今の一手で世界が反転した。 「・・・あの二人はな。」 「は・・・。」 一瞬何の話か分からなかった。 取り敢えず答えてから、遅れて緒方君と明子君の事かと気付く。 ずっと盤面から目を離していないと思っていた師匠は、向こうの二人に気付いていたのか。 「二人ながらに、可愛い弟子なのだよ。お前にとってもそうであろう。」 そして私が彼等を観察していた事にも。 「・・・は。」 何とも答える事が出来なかった。 結句、その一局は私が負けた。 その後、彼等が一緒に寝ている様子は無かった。 緒方君が私立の中学校受験に備えてあまり泊まり込まなくなった事もあるだろうし、 明子君も夏休みが終わってそうしばしば顔を出すことが出来なくなったのも理由かも知れない。 それでも顔を合わせた時の様子に変化はなく、派手な喧嘩をする事もあれば 二人で何処かへ消えてしまう事もあった。 偶に顔を見合わせて含み笑いを交わす様子には何処か性的な匂いが無かったとは言わない。 「あの二人、付き合ってるのか?」 「まさか。よく喧嘩してるぜ。姉弟の様な物だろう。」 「だが仲は悪くないな。」 「子どもだよ。」 「どうかね。」 他の弟子のする噂話も耳に入ったが、私はその会話に加わらなかった。 師匠の夫人も、あれ以来何も言わない。 二人が一緒に寝なくなったのもあるし、私に行動を期待するのが無駄だと悟ってからは まあ表立って間違いが起こらなければ良いとしたのであろう。 私は・・・相変わらず二人の気配をどう判断して良いのか分からなかった。 付き合っているのかも知れないと思う。 早すぎる気はするが、もしかすれば既に肉体関係もあるのかも知れない。 それでも、あの夏の座敷の時点では何も無かったと確信するし、 それならそうで、私が予想もしない間に二人が大人になってしまった、というのでなければ 構わない。 今なら逆に自分には関わりのない事だと割り切れる。 この心理状態をどう説明して良いのか、我ながら奇妙だとは思うが、 ともかく。 もう覚悟が出来たのだ。 あの二人はいつ大人に成っても良い。 それが私の中の何かに影響を及ぼす事はない。 それから更に数年経ち、明子君も緒方君も高校生になった。 そして師匠が他界した。 二人の碁の腕前は残念ながら伸び悩んでいる。 明子君は前回のプロ試験でも落ちちゃった、とぺろりと舌を出したが、 学校の勉強の方も相当頑張っている成績だと言うから、無理もないだろう。 彼女は未だ、碁に人生を賭ける覚悟が出来ていない。 緒方君の方もそれは同じの様で、進学校に通っている。 しかし彼の碁のセンスを鑑みると、余計な世話だが勉強に使う時間が勿体ない様にも思う。 もっと本気になれば、タイトルを狙える程の棋士に育つのではないか。 だが是ればかりは他人の私が言ってもどうしようもない。 彼の人生だ。 そんな事を思っていた折り、師匠の葬式で二人揃って私に話があると言うので、 私はてっきり二人が碁を止めると告げるつもりなのだと思った。 この二人は似ている。 共に才気溢れる若者だ。 狭い碁の世界に留めて置くのは、惨い事なのかも知れない。 残念だが。 「それで今後の事なんですが。」 随分はきはきと大人びた話し方をする様になった明子君が口を開く。 「ああ。」 「塔矢先生が研究会を引き継がれるんですよね?」 「さあ・・・その辺りはまだ話し合っていないが。」 だがそうなると思う。 師匠の一番弟子は私で、このレベルの高い研究会を散会してしまうのは惜しい、と 弟子の誰もが言っている以上、形の上だけでも私が引き継がねばなるまい。 「先生が拒否なさらなければそうなります。」 「断定的な物言いをするものじゃない。」 「良いじゃありませんか、私達だけなのだから。」 「・・・・・・。」 「それで、お願いがあるのです。」 少し予想外の言葉に私は内心首を傾げた。 「何だね。」 「私達・・・私と緒方君も、引き続きその研究会にお邪魔したいんですが。」 「・・・そうか。」 「先生に、どちらかを選んで欲しいんです。」 これは・・・。 どう云う事だろう。表情には出さなかったが、頭の中は疑問符で溢れた。 二人が碁を止めないと言うのも予想外だが、しかもどちらかを選べと? ・・・どう云う事だろう・・・。 「つまり、俺達は並立しないのです。」 「・・・よく話が見えないが。」 「お気づきにならなかったのね?本当に長い間?」 明子君の、少し嘲る様な問いかけに眉を顰めると、やはり二人は顔を見合わせて苦笑を交わす。 「分かる様に言って貰えないかね。不愉快だ。」 「私達は、ライバルでした。」 「ああその様だが。」 「私は、碁では緒方君に敵わなかったけれど、貴方を思う気持ちでは負けてはいなかった。」 「・・・・・・。」 突然の、告白じみた科白に口が開きそうになる。 いやいや、そうではないだろう。 何と言っても相手は高校生だ。別世界の人間なのだから多少使う言葉の意味も違うのかも知れない。 「俺だって同じです。それに先生だって俺の方を可愛がって下さった。」 「いや、」 それは緒方君と言うよりは緒方君の碁を愛でていたのだし、いや問題はそこではなくて、 明子君の方も可愛いと思ってはいたが、彼女は他の弟子達みんなに可愛がられていたから、 私が何かする事もあるまいと。 「そんなの関係ないわよ。」 「ちょ、少し、待ってくれたまえ。話が、」 「とにかく。」 二人は口を揃えた。 「私達はこの数年、お互い相手が貴方に近づかない様に監視し合って居ました。」 「・・・・・・。」 「そして、相手の貴方に対する気持ちが醒めるのを待っていた。」 「・・・・・・。」 「でも醒めなかった。・・・もう、限界なんです。」 「・・・・・・。」 困った・・・先程から唐突な告白ばかりで、あまりにも思考が纏まらない。 ただ、逃避した冷静な思考は、自分の前で強張った顔をしている二人の若者の真剣な眼差しを どちらも美しい、と認識していた。 「・・・私は、君達が付き合っているのかと思っていた。」 「違います。緒方君が反則をした時に、私が制裁を加えていただけです。」 顔に似合わず恐ろしい言葉を口にする。 「・・・・・・ええと・・・それで。」 「だから先生が、選んで下さい。 どちらか一人だけを弟子に取って、お側に置いて下さい。・・・一生。」 一生・・・。 「・・・それで、私が選んだとしてもう一人は。」 「碁も先生も諦めます。もう二人の前に現れる事はないでしょう。」 ・・・私が誰かをそこまで想った事はないが。 高々数ヶ月一緒に過ごしただけの愛玩動物との別れに、身を切られる思いをした事はある。 二人が、本当に彼等が言う様に、ずっと私を見つめ続けていてくれたとすれば。 それを自分で切るのは、どれ程の決断だろう。 この若さでそんな事に耐えられる物だろうか。 二人の眼差しが酷く美しい理由が、分かった気がした。 ・・・・・・。 ・・・選べない。 私に選ぶ事など出来ない。 自分の心の中を覗いて、私は自分で思っていた以上に二人を愛しく思っている事に気付く。 天真爛漫で、時に小悪魔のような美少女を、愛している。 誰よりも努力を惜しまぬ、禁欲的な少年とその碁の才能を愛している。 二人の内の一人を切るなどと。 だが、私は答えを求められている。 「・・・明子君。」 「・・・はい。」 もう女性と言っても良い少女は、しかし息を吸い込んで、震えるような声で返事をした。 「大学に行きなさい。」 「・・・・・・。」 「そして、卒業した後、私の所に来なさい。」 「・・・それは。」 「その、こんな年で年甲斐もなく、だが、君の様な若くて美しい人を貰うのは勿体ないと思うし ご両親が許してくれるかどうか分からないとも思うのだが、」 「・・・。」 「もし良ければ、一生私の側に居て欲しい・・・。」 「・・・・・・。」 ・・・黙したままの少女が、はらりと涙を流す。 口を開かぬままに光の筋が、きらきらと頬を伝う。 その美しさを、何者も侵すことが出来ない・・・。 そのまましばらくした後少女の口からやっと出た言葉は、 「・・・長かった・・・。」 だった。 その、どれ程の間慕っていてくれたのかと悟らせる一言に、私の胸も詰まりそうになった。 そんな私達を見て、緒方少年がす、と立ち上がる。 少年とは言えもう16。 子どもではない。 元々人前で涙などは絶対見せない子だったが。 「緒方君。」 「・・・失礼します。」 彼の声も少し震えているようだ。 「待ってくれ。」 「お世話に、なりました・・・。」 「違う。明子君は・・・破門する。」 「・・・え?」 「君には、引き続き研究会に来て欲しい。・・・私の一番弟子として。」 怒るかも知れないと思った。 緒方君は目を開いて止まっている。 左様、こんな優柔不断な決断に、腹を立てて当然だ。 「私は、君も・・・君の碁の才能を、愛している。将来はタイトルを狙える器だと思っている。 だから、どうか、碁を止めるなんて言わないでくれないか。 私の顔を見るのが厭なら他の研究会でもいいから、」 突然緒方君は膝を突き、私の首に抱きついてきた。 小学生の頃のあの時以来だが、あの時よりも大きく重くなっているのだから、私は倒れそうだ。 「先生・・・先生。・・・ありがとう・・・。」 細い腕が更に締め付けると共に私の背中に何か軽い物が当たり、 後の畳でカシャ、と眼鏡の落ちる音がする。 子どもの頃から常に冷静で、礼節を崩さぬと思っていた彼が 全身で心底礼を言っているのが伝わってきて、私は安堵した。 そしてその背を抱いた。 しばらく後、 「?」 胸をぎゅうぎゅうと押す感覚に下を見ると、明子君が憤怒の表情で、 我々を引き剥がそうとしていた。 「ちょっと!私の未来の夫に何をするの。」 「何言ってるんだ。先生は俺の碁を選んでくれたんだ。」 「いい気にならないで!先生は一生私を側に置いて下さると言ってくれたのよ。」 「俺だって一生着いて行くさ!そちらこそ思い上がるなよ。偶々性別が女だったから 嫁に貰ってくれるだけだぞ!」 「んまーっ!」 確かに、実際二人の性別が逆だったとしても明子君の方に碁を諦めろと 言ったかも知れないが。 その場合、私は緒方君を弟子にして更に結婚を申し込むのだろうか。 ・・・・・・莫迦莫迦しい。 仮定の話など考えても意味はない。 とにかく、緒方君はきっと強くなる。 どの道私は弱い人間だ。 美しく、しかも碁打ちの遺伝子を持った明子君を自分の物にしたいという願望に、 そして希有な才能を持った緒方君の成長を側近くで見守りたいという欲望に、 抗うことが出来ないのだ。 −了− ※11万打踏んで下さったアーネストさんに捧げます。 リクエスト内容は 緒方→行洋←明子でお願いします。 緒方と明子のバトルはコミカルに、最後はジャンクフードのアキラさんなみのわけ のわからぬ理由で行洋さんは明子さんを選んで、しんみりくる緒方。 とても楽しいお題です。 特に「ジャンクフードなみのわけのわからぬ理由で」の下り(笑) どんなんだっけ、と読み直してみたのですが、アキラさん、ピカの肉体に執着してるだけ!(笑) そんな行洋が思い浮かばなかったので、こんな感じになりました。 三人とも大好きなので、書くのが楽しかったですv と言いつつ自分で彼等のイメージを壊してしまったような気がしますが・・・。 実はね、多分上の話の後の話を望んでらっしゃるんじゃないかな〜と思いつつ、 ついつい少年緒方を書きたくなって書いてしまいました。 しかももっとコメディだろうな・・・。アーネストさん御自身のさり気ないコメディも実に上手くて面白いので緊張しました。 どうでしょう、こんなんでいいかな? アーネストさん、御申告&楽しいリク、ありがとうございました! | ||
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