Octopus 【前編】








オレの信条は「タダより高い物はない。」だ。


オレは子どもの頃、南方の海辺の町に住んでいた。
夏休みなど、晴れた日は銛を持って素潜りで魚を捕り、
雨の日は家で祖父と碁を打つ、そんな気儘で自然に親しんだ生活だった。

しかしある時、変化のない平和な生活に事件が起きた。
近所に当時珍しかったダイビング・スクールという施設が出来たのだ。

それ自体はどうという事はない、観光客向けの遊び場だった。
だがそこには水中呼吸器を使った潜水を教えていたイギリス人講師がいた。
その彼がオレに潜水の才能があると言って可愛がってくれたのだ。

彼は空き時間にタダで道具を貸してくれて、タダで潜水を教えてくれた。

長時間潜れる、海の中の世界にオレは夢中になった。

だが、その後彼がオレに要求した物は・・・。


オレは碁のプロになると言って、逃げるようにその町を出てソウルに向かった。







『日煥は、海の中では本当に魚のようだね。』


波の打ち付ける岩場で塔矢アキラがこちらを向いて微笑む。
黒いロングスリーブのウェットスーツを着て、耳に掛け損ねた黒い髪がぺったりと
頬に貼り付いている。
その白い顔だけが眩しく、夕日を跳ね返していた。


「塔矢〜!×××××、××××・・・!」


少し離れた波間から進藤が顔を出し、シュノーケルを外して笑いながら何か言っている。


『呼んでいるんじゃないのか?』

『うん・・・でもボクはもういいよ。』


面倒そうに手を振った塔矢に、進藤は膨れっ面をしていた。


ここは日本の最南端の沖縄という県に属する小島だ。
もう少し西に行けばもう台湾島だと言う。
地図にも載っていない小さな小さな無人島。
そんな場所に、何故オレは居るんだ・・・。





夏の長期休暇を利用して海外旅行でもしようと思ったオレは、北斗杯で
訪れた日本を選んだ。
日程が合えば北斗杯のメンバーの誰かと一局でも、と思って取り敢えず塔矢に
連絡を取ったら、先方も同じ頃プロ棋士数人と遠出をしようという話になっていたらしい。


『そうか。それは残念だがまた次回・・・。』

『林さんは碁以外で何か得意な物とか好きな場所とかありますか?』


何故そんな事を?と思いながらついつい、ダイビングならジュニア・オープンの
カードを取った事もある、と漏らしてしまった。

だが数日後、電話が掛かってきてメンバーの一人の実家が所有している無人島に
行く事になったから着いてきてダイビングを教えてくれ、と突然言われた時には本当に驚いた。


『いや、でも、』

『大丈夫ですよ、お客様ですし棋院からも補助金が出るので費用はお気になさらず。』


タダより高い物は・・・。




メンバーはオレを含めて合計7人。
北斗杯に来ていた塔矢、進藤、社、少し若いのはオレの知らない越智という
生意気そうな少年、逆に少し年長らしい伊角という男。
それに、引率だという緒方という人は塔矢行洋先生の一番弟子でタイトルホルダーでも
あると言う。

沖縄の離島だという小さな島に飛行機で到着してから更に船に揺られて二時間。
社などもう死にそうになった頃に、漸く我々はこの島に着いた。

外国人が仲間内で一週間も無人島暮らしをするのに、何故塔矢以外と話の通じない
オレが付き合わなければならないのか、と正直、不条理を感じずにはいられない。
(本当は一人でのんびりと観光でもして過ごすつもりだったのだ。)
しかし塔矢に「なかなか行き先が決まらなかったけれど林さんのお陰で皆がまとまったよ。」
などと礼を言われると、ついつい断る事が出来なかったのも自分だ。

それにここは無人島とは言っても寝るための大きくて頑丈なコテージのようなものはあったし、
毎日昼過ぎに近くの島から食料と一人20リットルの真水が届けられる事になっていた。

要するに、ちょっとしたサバイバルごっこ。
一週間だけのロビンソン・クルーソー。

そう思うと言葉が通じないのも気にならなくなった。
オレは、気儘に状況を楽しませて貰うことにした。






ダイビングを教えてくれと言っていたが、二日目にプロのダイバーが講習に来た。
みんなでタンクを着けて潜る事になったのだが結局オレも教える側に回り、あまり勝手に
潜る事は出来そうにない。


『耳抜きはな、ほら、こう。鼻をつまんで息を吐くようにするんだ。』

「××?」

『だから口から吐いてどうする!』

「ハハハハッ!」


鼻をつまんだまま思いっきり深呼吸した社に、少しは心得のあるらしい伊角という男が
大笑いする。

その後、口頭の講習が始まったらしいので、オレは一人で離れた木陰に行って
少し休むことにした。
すると、半袖の開襟を着た緒方という人が煙草をくわえながら寄ってきた。
この人はリゾートだからと言ってはしゃぐ様子がない。
恐らく東京でもこんな感じなのだろう。
箱から一本だけ白い筒を覗かせて差し出すのを、手を振って断る。


「No,thank you.I`m not yet of age.」

「O.K.」


英語なら、日本語よりは通じる。
・・・だがふと、件のイギリス人にこの男はどこか通じる所があるような気がして
少し寒気がした。


「・・・Don`t you take a course?」

「No.I don`t dive in.」

「・・・・・・。」

「×××アキラ×××××××・・・。」


不意に日本語で呟かれて、顔を上げると無表情でこちらをじっと見ていた。
確か、「アキラ」と言った・・・。


「・・・Pardon?」


何を、言ったのだろう?通じないと分かっていて?
だが答えずにまた目を逸らし、ふ・・・と長い煙を吐く。
やがて


「Excuse me.」


一言吐き捨てるように言うと、まだ長い吸い殻を砂に押し込んで、立ち去っていった。





呼ばれて行くといよいよ実技だった。
見ると既に塔矢と越智はロングスリーブのフルスーツ、進藤と社は半袖半パンツの
スプリングに着替えている。
緒方さんと伊角は見学組らしい。
オレも用意されたロングスリーブのスプリングに着替える為に服を脱いだ。


「××カラダ××××××。」


進藤が感嘆したような顔をして寄ってきて、裸のオレの胸に触れた。
今「体」という単語が聞き取れた。
多分Body を褒めてくれているのだろう。
笑い返そうかと思ったが、オレはあまり笑うのが上手くないのでやめた。





インストラクターと共に小舟に乗って少し沖に出る。
この島は半分は遠浅の海に囲まれているが、裏手に行くとすぐに深くなるので
あまり島から離れなくても潜れる。


『この辺でいいかと言っています。』


水深は恐らく10メートル位、初心者には丁度だろう。
それにしても何て透明な海だ。
故郷でも、こんなに透き通った海には潜ったことがない。


『林さんにまず手本を見せてくれないかと言っているけど。』

『分かった。』


フィンをつけ、タンクとレギュレターを確認する。
ハッチの端に行き、インストラクターと目を合わせて頷き合い、後ろ向きに飛び込む。


ど・・ぼん・・


・・・懐かしい、懐かしい音。懐かしい浮遊感。
故郷から出て、何だかんだ言いながらもオレは一度も海に潜っていない。
海に入れば、思い出してしまうような気がして怖かったのだ。

水が怖くなるのは普通は水中の恐怖体験が原因だろうが、オレの場合は
上がった後だった。
声変わりもしていない、引き裂かれるような自分の悲鳴が聞こえるような気がして。

だが、実際に入ってみるとただ懐かしいだけだった。

水が驚くほど温かいせいかも知れない。
水底を照らす太陽光線が明るいせいかも知れない。

水面に顔を出すと丸まった進藤が大きく水しぶきを上げて飛び込む所だった。
こら、そんなに大きな音を立てたら魚達が逃げてしまうじゃないか。


それからインストラクターが社と越智を、オレが塔矢と進藤を引率して
オレ達はしばらく海中庭園に遊んだ。

信じられないほど、美しい世界だった。



夕方近くなってインストラクターは船に乗って帰って行った。
明日からは水と食料しか来ないからタンクを持たない素潜りになる。
だが、それでもこの島なら十分に楽しめるだろう。

日が傾いて社と越智は疲れたのか先に陸に上がって着替えたが、
塔矢と進藤とオレはまだ岩場で潜っていた。

とは行っても塔矢は岩の上で座っているだけだ。
進藤とオレがどちらが長く潜っていられるかを競ったり、魚を追いかけ合ったりして
遊んでいる。
だがその内オレもいい加減疲れて、塔矢のいる岩場に戻って一休みした。


『日煥は、海の中では本当に魚のようだね。』


そういう塔矢は、岩場に横座りをして人魚のようだ、と少し思う。
塔矢がオレの名前を呼び捨てにしたのは初めてだったが、何故か全く不快でもなく
違和感もなかった。


「塔矢!」


近くまで泳ぎ帰ってきた進藤が、悪戯っぽい顔をして塔矢に笑い掛ける。
後ろ手に何か隠しているようだ。


「××?」

「××××××?」


暫く焦らすようなやり取りの後、急に進藤が塔矢の目の前に何かを差し出した。


「!!」


ぐにゃりとぬめる物体に、塔矢が仰け反る。


『な、何だ?』

『ああ、蛸だ。』

『え?何?』


知らない単語か。


「Octopus.」


足も含めて赤子の頭ぐらいの小ぶりの蛸で、恐れる程でもない。
子どもの頃捕って食べた事もある。

進藤の手の中から取り上げて、足を一本食いちぎるとぴゅっと墨を吐いた。


「わっぷ!」


見ると進藤の顔に掛かって真っ黒になっている。
塔矢とオレは爆笑した。


「××××〜××××××?」

『ああ。美味いぜ。』


海水でばしゃばしゃと顔を洗った進藤が、首を傾げた後オレが持ったままの蛸の足に
ぱくりと食い付いた。


「れーーーっ!」


今度は舌に吸盤で吸い付かれて、吐き出そうとするが顔を離せば舌が引っぱり出される。
オレはもう一度大笑いした後、腰に付けていたナイフで足を切ってやった。


「×××××。」

『美味いか?』

「××。」


ニコニコ笑いながらくちゃくちゃと口を動かす。
塔矢が不審そうな顔をしていたので、もう一本切って海水で軽く洗い、
渡した。


『・・・食べても大丈夫なんですか?』

『ああ。活きがいいから美味いぞ。』


まだ疑わしげな顔をしながら、それでも恐る恐る口に運ぶ。
ぴくぴく動く蛸の足を舌に乗せる塔矢は・・・妙にエロティックだった。


『どうだ?』

『・・・美味しい。』


少し驚いた顔をした後、微笑んでこりこりと噛む。


『もう一本食うか?』

『可哀想だよ。蛸って足を切られても生きていられるの?』

『ああ。すぐに新しいのが生えて来るしな。』

『そう・・・。あ、そうだ。じゃあ後5本あるから、生かして置いて一日一本食べる事にするよ。』


可哀想と言ったその口で・・・。
と思ったが、その時は苦笑しただけだった。
皆で分けようという発想が湧かないのも、育ちが良いから逆にそうなのだと思った。



その夜は、オレ達がダイブしている間に緒方と伊角が釣ったという魚を焚き火で焼いて
みんなでわいわいと食った。
美味かった。






三日目も快晴だった。
一人一日20リットルの真水というのは、料理以外の飲料水、洗顔手洗いなどに使う。
体などは海水で洗えばいいので、無駄遣いしなければ余裕で一日過ごせる。
万が一天候が悪くて船が来られなくても、2〜3日なら大丈夫だろう。

とは言えメンバーはそれぞれ20リットル入りの名前を書いたポリタンクを持っていた。
無駄遣いを避ける為だと思う。

オレが起きた時コテージの外に塔矢と越智がいて、塔矢が丁度顔を洗おうとしている所だった。
ポリタンクには樹脂で出来た蛇口がついていて、横にすれば水道のように使えるように
なっている。

タンクの上にタオルを置いて蛇口を捻った塔矢はしかし、横の髪が落ちてきて鬱陶しそうだった。
顔を上げずに何か小声で言うと越智が顔をしかめる。
だが小さな溜息を吐くとすぐに塔矢の後ろに立って手を伸ばし、恭しく横の髪を持ち上げた。
塔矢はそれを当然のように顔を洗い続け、タオルで顔を拭った後オレに気付き、
『おはよう。』と言った。


・・・越智という男は、気位が高そうだと思っていた。
この島も彼の祖父の財産だと聞いている。
飛行機の中でも当たり前のようにスチュワードを顎で使い、昨日のインストラクターも
さすがに使用人とは思っていないようだったが、どこか敬う気持ちが足りないように見えた。

そんな男が。
似合わない。
と思うのは、オレが外国人だからか?それとも越智という男を見損なっていたのか?

塔矢は越智の方を見もせず、オレを手招いた。
オレも越智を見ず、招かれるままに塔矢の元に行った。




連れて行かれた炊事場の脇にはバケツがあって、海水を張った中に足が4本欠けた
蛸がいた。


『食ったのか。』

『うん。やっぱり美味しいね。』


4本の足、今日また食べられて、3本になるのだろう。


『こまめに水を換えた方がいいな。』

『そうか。』

『おまえが食うんだからおまえが換えろよ。』

『分かってるよ。』


ぱらりと横髪が揺れる。
潮風に晒されたはずなのに、洗い立てのようにさらさらしている。

別に塔矢に水を換えてくれと言われた訳ではない。
誰かに頼もうとしているようだった訳でもない。
だが、何故か念を押すように言ってしまった。



『蛸は何を食べるんだろう。』

『さあ。貝か何かじゃないか?』

『そうか。じゃあ貝を捕るのを手伝ってくれる?』

『餌をやってまで生かすのか。』

『殺すつもりはないよ。』


そうなのか。こうやってバケツの中に閉じこめて餌をやって、
足だけ食べて生かさず殺さず。逆に残酷じゃないか?
帰るときはどうするつもりなのだろう。
まあどうでもいいが。


ウェットスーツを用意していると塔矢が声を掛けたらしく、
昨日はダイビングをしなかった伊角が銛を持ってやって来た。
水着にマスクだけ着けている。
塔矢は今日も黒いフルスーツだ。







『お。海胆だ。』


一昨日蛸がいた岩場の近くに、海胆がいた。
手袋をはめた手で掴み、ナイフで割ると中に朱い身が詰まっている。


『食う?』


伊角に差し出したが、躊躇っている。
生きているものを捕って直接食べる事に慣れていないのだろう。


『ボクに頂戴。』


塔矢がいつの間にかすぐ側まで来ていてオレの腕に縋り、口を開けた。
オレはその子どものような仕草に少し驚いたが・・・内心の動揺を隠してナイフで身を取り出し
その口に差し込む。

カチ。

塔矢がナイフに歯を立てて、じっとこちらを睨み付けた。

白い顔、頬に貼り付いた黒い髪、朱い身を含んだ紅い唇。
そこから覗く白い歯に食い止められた、光るナイフと海水の雫。

何か、そのまま刃を押し込みたくなる衝動を覚える程、情動的な顔だった。
そんな自分の心にまた驚いてゆっくり引き抜くと、塔矢は舌なめずりをして海胆を味わう。


『甘い。』

『そうか。』

『・・・さっき、ボクを殺すつもりだった?』

『まさか。』

『そう。』


意味ありげな遣り取りに、意味などないのだろう。
オレ達の方を見ていた伊角が物欲しげだったので、彼にも海胆の身をやった。
美味そうに食っていた。

それからしばらくして戻る事になり、岸まで泳ぐ。
一番に着いたオレはウェットスーツの上半身だけを脱ぎ、フィンを担いでコテージの方に向かった。


『待って。』


何だ?振り返ると、塔矢がフィンを脱ぎ損ねてこけている。
笑いながら手を伸ばそうと思ったら、塔矢は伊角の方に手を伸ばした。
伊角は塔矢を・・・女性・・・姫君何かのように抱き起こし、
塔矢は伊角の耳に礼か何事かを囁いた。

何とはなしに。
見ては行けない光景のような気がしつつ、目が逸らせない。

そうして伊角は何故か塔矢の首のファスナーに手を掛ける。
脱ぐのを手伝えとでも言われたのか・・・?

昼間から。

そう思ってから、違う、と自分で思う。


チー・・・。


伊角は、躊躇いながらファスナーを開けた。
肌を切り裂くように。
何となく赤い身がばらりと零れるのではないかと思ったが、
黒い布地から現れたのは、異空間のように白い肌だった。
こちらから見ていてもこれ程白いのだから、側に居ればもっとだろう。

伊角は、後は破れかぶれのように一気に臍辺りまで引き下ろした。

魚の肌を、切り裂いたように。
貝の身を剥いたように。


白くて、眩しい。

汗ばんでぬめぬめとしている。


伊角の喉が、動いたのが見えた。
塔矢はことさらゆっくりと、ゆっくりと前をはだける。
昆虫の羽化のように慎重に抜く袖は、まるで見せ物のようだ。

薄暗い、夜の街ではなく南の島の太陽光の下で行われる、ストリップショー。

やがて塔矢は上半身裸になり、伊角の前に立った。
海からの逆光に二つの影が重なり、共にその表情が見えなくなった。
ただ波音を遮って届く声。


『アナタの真似だよ。』


確かにオレも上半身を脱いでいるが・・・。



オレ達はその後も森を探検したり、また海に入ったり子どものように遊んだ。
だが・・・明るい太陽の下、何処かオレの心には暗い影が差しているようだった。








−続く−






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