63.砂糖漬けの世界
63.砂糖漬けの世界








遠距離恋愛。

メディアではよく聞く言葉だけれど、実生活では聞いたことがなかった。
ましてや、それが自分の身の上に起こるなんて。


キミが、やむを得ない事情で大阪に引っ越す事になった時、
ボクは恥も外聞もなく泣いた。
キミを困らせてしまったかも知れないが、ボクが泣いたせいでキミは
たぶん泣かなくて済んだんだから、内心感謝していたのではないだろうか。

でも、今は遠距離なんて怖くない。

キミの棋譜はいつでも手に入る。
いつだって心は一緒にいられる。

それに新幹線で高々二時間半。とちょっと。
会いたくなれば、いつでも会える。
少し、仕事や色々なものを犠牲にしなければならないけれど。




初めてキミに会った時の衝撃は忘れられない。
父の経営する碁会所に入ってきた時は特に印象はなかったが、
対局で、あんなにどきどきしたのは初めてだったかも知れない。

打ち始めてすぐ、自分が劣勢かも知れないと気付いたが、
まさか、まさかという思いがそれを認める事を遅らせた。

結果、ボクは負けた。


身も心も、キミに屈した。




中学に上がり、ボクが学校に行った時にはキミは驚いていたけれど
実は初めてじゃなかったんだ。
インターネットで調べて、何度も行った。
色々な交通手段で。

下校するキミの後から着いていった事もある。
キミは気付いていなかったけれど。


それからボクは何度もキミの家に行った。
外から眺めているだけだったけれど。
まだ見ぬキミの家の間取りを想像し、二階の夜遅くまで電気の点いている部屋が
キミの部屋だと分かった。

微かに、パチッと乾いた音が響いた気がした。

ますますキミが好きになった。



それから、色々あったけれど。



キミと再び打てるようになって死ぬほど嬉しかった。
キミはきっと戻って来てくれると信じていた。
ボクを選んでくれてありがとう。

キミと盤を挟む毎日は、甘い甘い砂糖漬けの世界。

指先からキミの想いが伝わってくる。
キミも死ぬほどボクを求めているのが分かる。



やがて、キミは家を出てアパートで一人暮らしを始めた。
ボクの為でもあるだろうけど、囲碁の勉強もはかどったようだね。

キミは一層強くなった。

ボクが初めて訪ねた時、キミは困ったようにもじもじしていたね。
可愛かった。

でも、ボクだってそれなりに覚悟を決めて行ったんだ。
キミは何も困らなくていい。
ただ、欲望の赴くままにボクを抱いていい。

そう思っていたのに、どうしようもなく不器用なボク達は。
玄関先で立ち話をして、別れた。

胸が押しつぶされそうで切なくて。

でも、そんなキミも、自分自身も何だかどうしようもなく可愛くて。

当時、小さな一歩が踏み出せなかった自分達は子どもだったと思うけれど
今思うと懐かしく愛しい思い出だ。




でも、小さな行き違いもあった。
キミが、女性をアパートに連れ帰ったんだ。

水商売の人だろうか、それともデリヘルというものだろうか。
キミも欲望を吐き出さずにいられない事があるのだろうか。
ボクを使ってくれればいいのに。

そんな事を、思っていても言うことが出来るはずもなくて。

親戚?家電か何かの出張アフターサービス?
そういう可能性も捨てることは出来ない。

悶々としている自分が嫌で、このままでは仕事にも差し支える気がして
ボクは思い切った行動に出た。
一歩を踏み出したんだ。




ぱち。
ぱち。

夜、キミが打つ音に耳を澄ませるのが日課になった。

キミが唸り、ボクは微笑む。
ますますキミが好きになる。

誰かから電話が掛かって来ても、ボクはじっと待つ。
二人だけの、砂糖漬けの空間。


  ああ、オマエか。

  うん。食ったよ。

  そうだな、まあまあかな。今月はまだ負けてない。

  はははっ。うん、ありがと。


オマエと言っているからご家族ではない。(彼に弟妹はない)
碁の手の話をしないから、同業者ではない。


  うん……うん。オマエもな。

  日曜日?ちょっと待ってな。うーん…うん。大丈夫。


ちょっと待て!日曜日はボクと打つ予定だったんじゃないのか?


  いや、うん。いけるいける。……はいはい。

  オッケー。オレも楽しみにしてるよ。





直後鳴った携帯を、ボクは取らなかった。
どこの誰か知らないが、男か女か知らないが、そんな奴との約束のために
ボクとの先約を反故にするなんて許さない。


こんな事が二度とないように、こんな想いを二度としなくていいように、
ボクは毎日進藤に手紙を出すようにした。
郵便ではタイムラグがあるから、手渡しで。
会えなかった日は郵便受けに直接入れた。

毎日毎日、キミを見つめている事、キミの声に動く音に耳を澄ませている事、
ボクに嘘をついても無駄なこと、キミによく分かるように。

レポート用紙に書いたのは、毎日綴じればそのまま日記になるからだよ。
便利でしょ。

進藤宛の郵便物は、ほぼDMばかりだったけれど、偶には面白い私信もあった。
キミ、意外と女の子にだらしないんだな。
厚手の封筒に入れて返されて来た指輪は、貰って置いてボクの小指にはめておこう。

ちゃんと説明しなきゃ分からないと泣き言が書いてあったぞ。
ボクの事をちゃんと伝えていないのか?
それとも、ボクが直接行こうか?




キミはまた、ボクだけを見つめてくれるようになった。
砂糖漬けの世界が戻ってきた。




でもキミは、どうしてボクと打ってくれないんだろう。
ボクと話してくれないんだろう。

穴が開くほどボクを見つめて、それなのにどうして触れてくれないんだろう。

キミが一人暮らしを始めた時、ボクに住所を教えてくれなかった事、もう許すよ。
ボクに聞かれるのが恥ずかしいなら、盗聴器も外してもいい。

キミが出したゴミを分別しなおしたのが気に入らなかったのか。
だってキミ、缶もペットボトルも一緒くただし。
キミが使ったティッシュが欲しかっただけだし。


これは何かの行き違いなのか。
それとも、進藤も一歩踏み出して、ボクと共に生きる決心をしてくれる前触れなのか。


思い悩んでいた頃、進藤が大阪に引っ越すと聞いた。
関西棋院に移籍するらしい。
「やむを得ない事情」との事だ。


そうか、それでキミは……。


黙ったまま、身を引くつもりだったのか……。





大丈夫。遠距離なんて怖くない。

キミの棋譜はいつでも手に入る。
いつだって心は一緒にいられる。

それに新幹線で高々二時間半。とちょっと。
会いたくなれば、いつでも会える。

ボクを諦める必要なんてない。


そうだ!

ボクだって、別に東京に縛られる必要はない。
棋院の側にいなければプロ棋士が続けられないわけではないし、
いっそ進藤と同じく移籍してもいい。

いいよ。

ボクはきっとキミを探し出す。

「やむを得ない事情」が何か分からないけれど、

ボクがきっとキミを救い出す。



そして、また二人で打とう。
甘い甘い砂糖漬けの世界に溺れよう。






−了−






※元ネタというか発想元は「ストーカーと呼ばないで」byオオタスセリと、
 宇多田ヒカルの「Making Love」。

 ヒカルのやむを得ない事情は勿論アキラさんです。
 たぶん逃げ切れない。






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