61.隻眼狂人ギルド(共同体) 棋院でトイレに入ると、塔矢が水道の所で手を洗ってた。 オレが用を足し終わる頃には外に出てるだろうと思って 「じゃあな」って挨拶して便器の前に行ったのに、終わってもまだいる。 「何してんの?」 「コンタクトが」 「へー!オマエコンタクトだったんだ。知らなかった」 コンタクトが汚れたのかずれたのか、片手で下瞼を引っ張って 慎重に色つきの薄くて小さい皿を目玉に入れている。 「ああ。よく見える」 急に澄ました顔になるのがなんかムカついて、洗いっぱなしの手を ピッと弾いて水しぶきを顔に向けて飛ばしてやった。 「っ!」 塔矢は大げさなくらい驚いて顔を覆い、しゃがみこんだ。 「何をするんだ!」 「ばーか。水だよ」 「水でも、こんな事をする奴があるか!」 「なんだよ、ちょっとふざけただけだろ?」 実際、子どもの頃から友だちとよくふざけてやってた事で、 やり返されこそすれ、こんなにキレられたのは初めてだった。 確かに大人げない悪戯かもしれないけれど。 そんなに怒ること、ないじゃん。 「目が見えなくなったり、悪くなったりしたらどうするんだ」 「片目くらい見えなくなっても死にゃあしねーよ」 「……そう」 塔矢が、怖い声を出した。 そして黙ってオレの片手、というか人差し指を掴み、持ち上げる。 「んだよ」 その手を、ゆっくりと、自分の右目に。 「おい!やめろよ!」 「片目くらい見えなくなっても、死にはしないんだろう?」 本当に自分の目に指を入れそうになったので、全力で抵抗する。 冗談にも程がある! 何かの拍子に入ったらどうするんだ? 「おい……ちょっと、ほんとに、」 この馬鹿力! 大した力を入れていなさそうなのに、全然振りほどけない。 塔矢の右目の上瞼に、オレの爪が触れる。 瞼が少しめくれ上がって、睫毛が上を向く。 まさか、まさか、と思っている内に、オレの指が、塔矢の眼球に触れた! 眼球は堅く暖かく、瞼の皮膚との間に裂け目が出来るように、 オレの指が飲み込まれていく。 「う……うわああああ!」 本当に、塔矢の目が潰れる……! と思った途端に手を離され、オレは思い切り後ろに尻餅をついて トイレの壁で頭を打った。 「おま……なに、」 見下ろす塔矢の右目は、目の縁は赤いけれど 目玉は何故か充血もしていない。 「義眼なんだ」 「……へ?」 「こちらの目は、ニセモノの目なんだ。 だから、片方しかない目に危害を加えられると本当に困る」 「……それは……ごめん」 「分かってくれればいい」 「っつーか!あんな事しなくても言えばいいじゃんか!マジで……」 「ちょっとふざけただけだろう?」 言い終わらない内に、用意された返事が返ってきて でも、オレが言ったことだから言い返せなくて。 塔矢に対するオレの印象は、また悪くなった。 正直、塔矢を好きだったのは、最初だけだった。 初めて行った碁会所で、右も左も分からないオレと快く打ってくれて。 その時、コイツは良い奴だと思った。 あ、小学生のくせに中学の囲碁大会に出た時も、誉めてくれたな。 あの時見せてくれた笑顔が、記憶にあるなかで一番優しい顔だ。 でもそれ以降は。 プロになる前も、なった後も、厳しい顔か皮肉な笑顔くらいしか見ていない。 今では、オレに期待しているのもオレをライバルと認めてくれてるのもよく分かる。 オレも盤上では、塔矢以上の相手はいないと思う。 でも、人間対人間としては、相性最悪。 冗談通じねーし、話題も合わないし、常識違うし。 それもどうかと思って、偶に水しぶきの事みたいに友だちっぽい事してみるんだけど。 全部が全部、裏目に出てキレられてる。 子どもじゃないからさ、基本穏やかに挨拶もするし雑談もしないではないけど。 塔矢とオレが本当に仲いいのは、黙って碁を打ってる時だけだと思う。 「お。進藤。ご機嫌斜めだな」 対局が終わってジュースを飲んでると、通りかかった緒方先生が声を掛けてきた。 オレに限らず、誰かが機嫌が悪そうだと上機嫌になる。 この人の性格も何とかして欲しい。 「別にー。悪くないですよ」 「なるほど。負けたのか」 「負ーけーてーなーいーです!勝ちましたって!」 「じゃあ、なぜそんな顔をしてるんだ」 「だから別に……」 そうだ。 塔矢が片目義眼なのって、結構有名な事なのかな。 知らなかったのオレだけ? 「あの。塔矢アキラが義眼って、緒方先生知ってました?」 「……ああ。おまえも知っていたのか」 「今日偶々」 「隠さなければならない事ではないが、広めたくもないだろう。 おまえも、気軽に吹聴するなよ。相手がオレだったから良いが」 「分かってますよ。緒方先生だから、聞いたんです」 愛想良く笑いながら軽く持ち上げると、満足そうに笑う。 扱いやすい。 塔矢の歪み具合も、この程度だったらまだマシなのにな。 「いつからですか?」 「さあ……オレも詳しいことは知らない。 一度サイズが変わって作り直しているから、大人になる前だとは思うが」 てことは、オレと出会う前って可能性もあるな。 今まで全く気が付かなかった。 でもそう言えば、塔矢に横目で見られたことないかも。 碁盤も人の顔も、いつも真正面からまっすぐに見るのは、 性格だけじゃなくてそういう理由もあったのかもな。 その塔矢が、スランプになったのはそれから半年後だった。 体調が悪いらしく、休場も多いが偶に来てもちょくちょく負ける。 「いやあ嬉しいな〜、オレに名人をわざわざプレゼントしてくれるつもりだとは」 「うるさい」 最初は軽口を叩いていたオレも、塔矢の負けが込む内に、どんどん不安になっていった。 このまま塔矢が打てなくなったら? ずっと追いかけてきた背中。 小学生の頃から、(幽霊以外は)塔矢だけを見て打ってきた。 ……でも、棋士はたくさんいる。 目指したい人も、勝ちたい人も。 日本だけじゃない。 コイツだけには絶対負けたくないって、思わせてくれる奴もいる。 どうだろ。 塔矢がいなくなっても、困らないんじゃねーか? 元々性格は合わない。 ずっと塔矢を見てたから、情が移ったというか馴染んじゃって いなくなったら寂しいけど、いなきゃいないでそれなりに。 なんとか、なんじゃない? そんな、我ながら薄情な事を思っていたが。 塔矢が遂に入院したという話を聞いては、見舞いに行かずにいられなかった。 「あら、……進藤さん、だったかしら?」 病室の扉を開けてくれた美人のかーちゃん。 「わざわざお見舞いありがとうございます。 私は失礼するから、遠慮なくゆっくりしてらしてね。 じゃあアキラさん、考えておいてね」 すれ違う時ちらっと見えた、左目がなんだか涙で光っていたような。 「……何の話してたの?」 「キミには関係のない話だ」 「だろうけど。あんまかーちゃん泣かせるなよ」 「それこそ余計なお世話だ」 って。何でこっち見ないんだ塔矢。 「おい、その左目……」 入り口側から見えなかった左の目を覗き込むと、ガーゼが当てられている。 「ほとんど、見えないんだ」 「え?なんで?」 「全く、ボクの手落ちだ」 目と言えば。 ほとんど忘れていた、半年前のトイレでの出来事を否応なしに思い出す。 「もしかして、あの、前オレがトイレの水ぴっ、てしたから?」 塔矢は俯いて、自嘲するように唇を歪めて笑った。 「まさか。あの時はすまなかった。キミにあんな口を利いて置いて、 自分の不注意で失明してるんだから世話はない」 「不注意って?」 聞くと、義眼と本当の目の色が微妙に違うような気がして、気になって カラーコンタクトを入れていたらだんだん見えなくなって来たらしい。 最近の成績不良は、見えづらいせいだった。 「ちゃんと手入れをしていたら大丈夫だなんて、甘かった」 「って、じゃあ、今、何も見えてないの?」 「ああ」 うそだろ? 塔矢の頭の中の問題で不調になったんじゃないのは、嬉しい。 目さえ見えればきっと前と同じに打てるんだろう。 でも、全盲となると……棋士として、どうなんだろう。 「でも、でも、さっきおばさん『考えて』って言ってたよな?何か打つ手はあるんだろ?」 プロ棋士を引退するべきだとか、そんな事を実の親が言ったとは考えたくない。 コイツは碁だけを頼りに精進して、碁を打つために生きてる奴なんだ! 「ないではないよ」 「そっか!」 ああ……良かった。 それがいくら金の掛かる方法でも、苦痛を伴う方法でも、 コイツは絶対やるだろう。 塔矢先生もそれを勧めるだろうと思った。 「母の角膜を、移植したらって言うんだ」 「そうかー。大変だけど、オマエの場合は命に関わるからな。 角膜貰った方がいいんじゃない?」 オレの言い方に、塔矢がまた少し笑う。 でも大げさじゃない。 このまま碁が打てなくなったら塔矢が他に出来る仕事はないと思う。 そうじゃなくても、打てない世界に未練なんか持たず、 あっさり自分で命を絶ちそうな気もする。 「でも、母も現在片方義眼なんだ」 「え?」 ……てことは。 もし残った目を塔矢に差し出したら、今度はおばさんが。 「……そっか」 それは、迷うな。 あ。でも。 「じゃあ、こんな事言うのもなんだけど、塔矢先生は?くれそうにない?」 「父は……父も、片方義眼なんだ。同じ棋士として、目が欲しいなんて言えない」 「え。まじ?」 塔矢家全員義眼?! 片目率高すぎくね? 「……」 「……気持ち悪いと思ってるだろう」 「いや、思わねーけど……不思議。偶然?」 「偶然、でもないよ」 塔矢は少し迷うような表情を見せた後、こちらに顔を向けた。 ニセモノの目が、まっすぐオレの方を向いているようでいて、 少し視線を外して見えるのはオレの先入観か。 「我が家には、運とか流れを少しだけ自分の方に引き寄せる方法が伝わっている」 「?」 何の話?いきなり。 「まあ、本当かどうか分からないんだが」 「何それ。まじないか何か?」 「そう」 ボクが5歳の時、高熱が出て生死の境をさまよったことがあるんだ。 医者にも、手の打ちようがない、多分無理だと言われたらしい。 母は……自分の目を刳り抜いて、神様にお願いした……。 驚いた。 あの優しそうなおばさんに、そんな激しい一面があっただなんて。 でも、さすが塔矢のお母さん、とも思う。 「で、ボクは奇跡的に回復して今がある」 「そうなんだ……でも、それって偶然じゃね?」 「かも知れない。母が目を失わなくても、ボクは助かったのかも知れない」 かも知れないじゃなくて、実際そうなんだと思う。 まあ、世の中には全てがお互いに関係しあってるって考え方もあるから 風が吹けば桶屋が儲かる的に、おばさんの目のお陰で塔矢が助かった、 そんな考え方もアリだろう。 「もしかして、塔矢先生も?」 「昔の話だけど、大型客船の沈没事件があったのを知っているか?」 「ああ。毎年追悼報道があるし」 「母は、その生き残りなんだ」 それって、まさか、 「ニュース速報を見るなり、父は躊躇わずに片目を抉ったと言う」 「……そんな、」 「父は一応、全員の無事を祈ったって言ってたけれど、 やはり片目の効力には限界があるのか、心底で望んでいる事しか叶わないようだ」 「そんなの、狂ってる!」 ……偶然。それも多分、偶然。 愛する人の無事を祈って、命を想って、何かせずにいられないけれど出来ることがない。 そんな時、人はそんな方法を採りたくなのかも知れない。 でも、それってやっぱり狂ってる。 偶々叶ったように見えるけど、やっぱ偶然だし。 もし叶わなかったら、塔矢の母さんや塔矢が死んでたら、どれほど後悔するか。 そうだ。 ……塔矢は、どうして片目を失った? こんな話をするって事は、その願いも叶ったって事だよな? 「……おまえは?」 「……」 「おまえは、誰のためにその目を捧げたの?」 塔矢の顔から、表情が消える。 口を引き結んで、瞬きをしないガラスの眼。 白く滑らかな肌とバラ色の唇。 突然人形になってしまったようだ。 人形になった塔矢を、このままにしておいて病室を後にしても良かったけれど そうしたらもう二度と会えないような気がした。 人形塔矢は塔矢家に運ばれ、ガラスの棺に入れられてそのまま朽ちていく。 何故かそんなイメージが浮かんだ。 「おい!!!」 「……大きな声を出すな。看護士さんが、心配するだろう」 やっと少しヒトに戻った塔矢。 オレは安心して息を吐く。 「そうだな……キミ、一度打たなくなった事があっただろう?」 「え……ああ」 佐為がいなくなった時ね……。 あの時もしこの方法を知ってたら、もしかしたらオレは今片目かも知れない。 「……改めて言ったことはないけれど、キミが戻って来てくれて、感謝している。 あのままキミが打たなかったらボクは……碁をやめてはいないだろうけど この年で、タイトルを獲れていないと思うよ」 おい……何で今、そんな話すんだよ。 やめろよ。 カンケーねえだろ? オマエの目と。 ……それとも、もしかして。 塔矢を見ると、やはり視線は合わないけれど 気がついたか?と顔に書いてある。 塔矢が、貴重な片目を使ったのは…… 十五歳の、あの時、か? 伊角さんがうちに来たのは、 盤上に佐為を見つけたのは、 偶然じゃなくて、オマエの意思が働いてたのか? 塔矢の目が、オレを囲碁界に、連れ戻したのか? 「塔矢……」 「なんだ?」 穏やかな顔。 目が見えないままでも、碁が打てなくなっても、そんなのボクには関係ありません。 そんな、どこか他人行儀な表情。 オレも、努力して平然とした声を出す。 「オレの目を、かたっぽオマエにやる」 「……」 借りを作ったままってのは、良くないだろう。 特にコイツ相手には。 「オレの角膜を、オマエにやる」 「……」 「オレの一部が入るのが嫌だってんなら、この目を抉って願掛けする」 自分でも壮絶な事を言ってる。 でもそれを、コイツやコイツの家族は、当たり前に実行してきたんだ。 ……塔矢は人形くさい顔から、少し困った顔になって、 それから、笑った。 「そんな事をするのは、狂ってるんじゃなかったのか」 「実際目を抜いた奴が、言うなよ」 「……自分でも狂ってると思うよ。でも」 それ程までに、オレに戻ってきて打って欲しかったんだろう。 オレは、自分がそこまで求められている事に気付いていなかった。 佐為に夢中で、自分のことしか考えてなかった。 「なら角膜を受け取れよ。オレにとっては同じ事だ」 オレも、塔矢に囲碁界に戻ってきて欲しい。 前みたいに、一緒に打ちたい。 塔矢、いらないんじゃないかって そんな事、思ってごめん。 塔矢が、オレを必要としてくれたように、 オレも、塔矢が死ぬほど必要だ。 受け取らないって言われても、ぜってー押しつけてやるぜオレの片目。 「……キミなら、そう言ってくれる気がしていたよ」 ……え? 勝手に「やる」「いらない」「やる」「いらない」の押しつけ合いを想像して、 その攻防に勝ってやるぜっ!って気合いを入れてたオレは、 肩すかしにあってちょっと口を開いてしまった。 あー、そう?貰ってくれんの? また見えるようになって、オレと打ってくれるならそれは嬉しいけど。 コイツが、そんなにあっさり? 本気で怒った塔矢。 おばさんの左目の、涙。 「『気がしていた』?」 ……塔矢の身近な人で、角膜を提供できる人はもういない。 でも、塔矢には、どうしても一つ、目が必要だ。 自分の言った言葉が、恐ろしい重みを持って肩にのし掛かってくる。 復讐? まさか、な。 塔矢先生やおばさんの目のことまで疑わしく思えて オレが凍り付いていると。 塔矢は察したように立ち上がり、オレの方に近づいてくる。 逃げたくても、足が動かない。 「勿論、今した話は全て本当だよ」 先生とおばさんが、片目を失った理由。 塔矢が、片目を失った理由。 塔矢家の人々の、狂気。 塔矢は、オレの目の前まで来ると、十年以上ぶりの優しい笑顔を見せた。 「キミが信じてくれて、嬉しい」 キミがボクたちと一緒に狂ってくれて、嬉しい。 いい義眼技師を紹介するよ。 そう言うと塔矢は違わず正確にオレの右目の瞼を押さえ、 長い舌を出して、オレの眼球を舐めた。 「隻眼狂人共同体へ、ようこそ」 -了- ※こういうのしか思いつかないです。 ギルドというからには中世ヨーロッパパラレルとかも面白そうですね。
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