37.夜の狭間
37.夜の狭間








アイツが、夜来る。

夜、オレの部屋を訪れる。




塔矢が仕事を休みがちになったのは、珍しく取った長期休暇を使って行った
ヨーロッパ旅行から帰ってきてからだった。

その日、夜の便で帰ってきた塔矢はその足でうちに土産を持ってきてくれて
帰る時に玄関脇のショボい庭木をじっと見上げた。


「春になれば、若い芽が太陽にきらきら輝いてきれいなんだろうな」

「は?どしたんだよ急に」

「いや、キミのお宅には何度もお邪魔しているのに、どうしても思い出せない」

「当たり前だよ。オレだってそんなんいちいち見てねーもん」

「見ておけよ!」

「え?」


塔矢は、偶に瞬間湯沸かし器みたいに怒りだしたりするけれど
いつも確かに相手にも悪いところがある場合で。
その怒り方がどうかって話なんだよな。

でも今はどう考えても理由が分からなくて、それは塔矢も
分かってるみたいだった。


「……すまない。悪かった」

「どうした?何かあったのか?」

「いや、ボクは、そのきらきらした風景をどうしてもっと見ておかなかったのかと
 自分で自分に腹が立ったんだ」

「なに……言ってんの?」

「なんでもない」

「…じゃあ、来年の春にもまた来いよ。その時に見たらいいよ。
 そうだ、今思い出したけど、確かなんかちっちゃい花が咲くんだこれ」


その時の会話と塔矢の表情は、その頃のオレにとっては何の意味も
ないものだったけど、妙に忘れ難くて目に焼き付いていた。




それからしばらくして塔矢が病気だという噂が立った。
体調不良を理由によく仕事を休む。
指導碁は偶に行くけれど、大手合いに出ない。
イベントにも行かない。

当然成績は悪い。
このままでは、あと一歩と言われていたタイトルがみるみる遠ざかるのは
火を見るより明らかだった。

それでも病気なら仕方ない。
オレはライバルが転落していくのを、歯がみしながら見つめるしかない。
ただ、暇を見つけては塔矢の家を見舞いがてら訪れて打った。

古い大きな家は、家族がいないせいか雨戸を閉め切ったままで薄暗かったが
塔矢自身は元気そうに出てきていつも喜んで打った。

静まり返った屋内。
客間以外は電灯がついている様子もない。
闇に閉ざされて突き当たりが見えない廊下を進み、碁盤のある部屋に入る。
打っている間や検討している時は夢中で全く気にならないけれど
ふと周りを見渡すと、家の中の暗さや生活感のなさが尋常じゃない気がして
少し気味が悪かった。



塔矢の謎の欠席が続いても誰も何も言わなかったのは、
アイツが目に見えてやつれてきたからだった。

僅かな指導碁にも行かなくなった。
今思えば、行っていたそれも日が暮れてからの仕事ばかりだ。

偶に事務関係の用事で夜棋院に現れた塔矢は、
誰が見ても痛々しい様子になっていた。

余計な体力を使わせてはならない。
オレは、塔矢家へ見舞いに行くのも遠慮するようになった。
やつれた塔矢を見たくないという気持ちもあったのかも知れない。



そんなある日、オレは夢を見た。

オレは自分の部屋で寝ている。
しかし同じ部屋の隅に、黒い影が蟠っている。

……佐為?

そんな筈はない。
佐為はあんなに黒く、禍々しい気配を発していない。

それでもオレは何だかその黒い影が可哀相でならなかった。


翌朝目覚めても誰も居なかった。
当然だ。
部屋の鍵は閉めて寝るし、外から二階のオレの部屋によじ登るには
垂直移動出来る装備でもない限り無理だし。



二、三日して、また夢を見た。
部屋の隅に、黒い影が蹲っている。

じっと見ていると、今度はそいつが顔を上げた。


「塔矢……」


自分の上げた声の鮮明さに驚きながら、夢の中のオレはソイツを見つめた。
塔矢の顔をしたソレは、何とも言えない微妙な顔をしてこちらを見ている。

真っ先に思い浮かんだのは、これは塔矢の幽霊なのではないかという考えだった。


「オマエ……まさか。死んだのか……?」


それは、表情を変えなかった。
オレは胸が苦しくなって、ベッドから降りてにじり寄った。

恐る恐る、黒いソレに触れる。

……実在した。
手なんて氷みたいにひんやりしていたけれどそれは確かに指に触れて
柔らかくもあった。
やっぱ、夢か……。
オレは安心したのか何なのか、そのまま意識を失った。




それから、ちょくちょくその「黒い塔矢」の夢を見るようになった。
いつも夜中、気付いたら不意に部屋の中にいて、けれど一言も発しなかった。

電気をつけるのは嫌そうだったから、いつも薄暗い中だったけれど
月明かりのある夜には碁を打ったりもした。
「黒い塔矢」は強かった。
顔だけでなく、打ち筋も本物の塔矢と酷似していた。


「オマエさ……何の為にオレの所に来るの?」


塔矢が死んだという話は聞かない。
それどころかまだ一人暮らしをしているという。
門下生にも、塔矢先生やお母さんには報せないように言っているらしい。

オレの部屋に来るこれが塔矢かどうか、分からない。

夢の中のオレは、これが夢だと認識しているから、来られる筈のない
部屋の中に誰かがいても驚かないが、どうして自分の部屋に
塔矢に似た黒いモノが現れるのかは気になってならなかった。




夢は続いた。
最近はアイツが来る前に目が覚める…夢が始まるようになった。
暗闇の中でまんじりともせずに待っていると、バサバサと微かな羽音がする。

ベランダも何もない窓の外に、塔矢に似たソレが貼り付いていた。

オレはもう、躊躇いもせずに窓を開けてソレを迎え入れる。
ひんやりとした風と共に、アイツはオレの部屋に入ってきて降り立つ。

そんな時は、目が赤かったりした。
益々青白い顔。
いつも微かに漂ってくる甘い香りの正体はこないだ通りかかった
花屋で見つけた。

バラだ。
真っ白なバラ。
雪のように。
アイツの肌のように。

一言も話さない黒い塔矢を、オレは抱きしめる。
ホントにガキん時以外、誰かに対してこんな事をしたのは初めてだった。

気持ち悪いとは思わない。
どうしてそんな事をしたのか分からない。

ただただ、黒いソイツが哀れでならなかった。

オレの中の「命」みたいなもんを、少しでもソイツに分けてやりたかった。
一つになりたかった。


ソイツは、死にかけていた。


もう、夢かどうかなんてどうでもいい。


いや、本当はずっと気付いていたんだ。
これが夢なんかじゃないって事に。

塔矢が、決して鏡に映らない事に。


「なぁ、塔矢……オマエ……長いこと、食べてないんじゃないの……?」


「あれ」以来、塔矢が何かを食べている所を見たことがない。
そう。
「彼ら」の、習性なんてよく知らないけど、多分普通の食事なんて不要なんだ。


「その、動物の血、とかじゃ駄目なの?」


塔矢の表情は変わらない。
「こう」なってから、塔矢は前にも増して無表情になった。
でも多分、動物じゃ駄目なんだろうと思う。

塔矢には家に飛んで帰る力も残っていなかった。

オレは一晩中、冷たい塔矢の体を抱きしめていた。



次の朝。
部屋の雨戸もカーテンも閉めて、親にも棋譜を床に散らばらせてるから
部屋のドアを開けないように言って仕事に行った。

鉄分関係のサプリを何種類も買い込んで帰ったけど、やはり塔矢は
受け付けなかった。


「何で……オレの所に来たの」


疑問はいつもそこにある。
考えつく答えも、一つしかなかった。

何故オレなのかは分からない。
けれど、何故ここにいるのかは、分かる。

オレはずっと、考えていた。
最初は絶対無理だと思った。
両親やおじいちゃんおばあちゃん、幼なじみ、棋院の面々の顔が浮かんだ。

でも今は消えた。
呆れるほどの生命力を手にする事が出来る筈の塔矢が、少しづつ少しづつ
衰弱していくのを目の前に見ていると、そんなものはどうでもいいと思った。


「塔矢」

「……」

「……吸えよ、オレの血を」


一言を口に出すのに、渾身の力が要る。
だってそれは今までの人生を捨てることに等しいから。

友人も、太陽の光も、仕事も、全て。

けれどそれは塔矢も同じだ。
それにオレが仲間になれば、塔矢もオレも「碁」だけは捨てずに済む。

ああそっか。
だから、「オレ」なのか。


「いいよ。覚悟は出来てるよ」


オレが永遠にオマエと一緒にいてやるよ。
オレ達二人が永遠に打ち続ければ、神の一手なんて楽勝だよな?


「塔矢?」


けれど塔矢は。
その牙を剥く事はなかった。

オレの血を吸おうとしなかった。




それからオレは、毎日のように塔矢を説得し続けた。


「頼むよ。飲んでくれよ、オレの血を」


けれど塔矢は、決してオレの血を吸おうとしなかった。

碁を打ち続けたいだろ?と訊いた時だけ僅かに反応したけれど
基本的に塔矢はオレの話を聞いていないようだった。


なら、それなら、どうしてオレんトコに来たんだよ!

最後の飛翔の力を振り絞って。

どうしてオレの部屋の窓を叩いたんだよ。


塔矢は何も言わない。
オレのベッドに凭れて、今は碁石を持つ力もない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



オレは仕事に行かなくなった。


プロジェクターを買ってきた。


沖縄の海を写した環境ビデオみたいなのを借りてきて、一日中部屋の壁一面に
映し出した。


塔矢はもう二度と見ることのない眩しい太陽と青い空と海に照らされて
穏やかな顔をして目を閉じていた。


オレは薄暗い部屋で塔矢の肩を抱きしめ、涙を流し続けた。






−了−






※アキラさん、「オトコ香る」(男性用バラ芳香ガム)でも仕込んでるんですかね。

 一応ここで終わりますが、死にネタくさいのがお嫌な方は「52.夜の果て」にどうぞ。
 続きと言えば続き?という感じになります。

 現実に吸血鬼の特徴を備えた病気に感染して、治療法も生き血を吸う以外の生き方も
 見つからなかったら、大概の人はそのまま死を選びそうなので、お話になりませんね。
 なんてことを思いながら書きました。






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