30.送り狼、いま何処。
30.送り狼、いま何処。








「ボクを抱いてくれませんか?」


緒方さんは煙草を取り出す指を些かも止めなかった。
狼狽えなかったのか、狼狽え過ぎて意味を把握しかねたのか分からない表情。
しかし火を点けて、おおきく一服吸うまで口を開かなかった。
煙草をやめられない人というのは、この「考える間」が手放せないのかも知れない。

などと、膝の上の鞄の中の、切なくて愛しい秘密の上に手を当てながら思う。


「……アキラくんは、男性経験があるのか」


少し淫靡な響きのある、こんな表現をさらりと口に出来る緒方さんが好きだ。


「さっきのキスが男性経験と言っていいのならありますが、他はないです」

「オレもだ」

「はい」


優等生のような返事をしながら、胸が高鳴った。
ボクは良い判断をして、正しい答えを導き出していると信じていた。
……なのに。


「……そしてそれは、これからもそうだ」

「……」


ボクは煙草を吸わない。
緒方さんのように上手く心の中を隠すことなんて出来ない。
息を殺すのが精一杯で、不自然な間を取り繕うなどとても無理だった。

自分が緒方さんの、生涯唯一の「男性経験」の相手だと思うと嬉しくもあるが
勿論緒方さんが言いたいのはそういう事ではない。
こうもきっぱりと断られると自分が不条理な要求をしたのにも関わらず
恨めしい気持ちになった。




しかし、だとするなら緒方さんにとって、ボクは何だったのだろう。

幼い頃から女の子のような顔だと目を細めていた。
男ですがと拗ねてみせると、からかうように笑って優しく肩を抱いてくれた。
ボクの碁が気になると言ってくれた。
ボクは、それがボク自身に対する関心だと思った。
緒方さんは否定しなかった。

そして掠めるようなキス。


あれは、何だったのだろう。
ボクの恋情を膨らませるだけ膨らませて、一気に粉砕して楽しんだのだろうか?
その可能性は……ないではない。
緒方さんの性格からして。

信じたくない。
けれど目の前のポーカーフェイスからは、それを否定する材料は読みとれない。
肯定もされないのだけれど。


「……帰ります」

「……そうか」


小さな溜息をつきながら立ち上がる。
失恋…感傷…今の気持ちは、まだそんな風に名前がつけられるものではなかった。
ただただざわめいている。
一刻も早くこの場から立ち去りたかった。


「アキラくん、」

「緒方さん、ボクはゲイなんです」

「……」


あなたが好きです。
あなたが好きです。

けれどそんな事言ってあげない。


「他の人が抱いてくれますから全然大丈夫です」


男なら誰でもいいんです。
とまでは言わなかったが、ニュアンスは伝わったはずだ。
子どもっぽい嫌がらせ。
けれど今のボクには、どうしても必要な見え透いた嘘。安っぽいプライド。


「アキ…」

「失礼します」


扉を閉め、エレベーターに向かって大股で歩く。
追って来てくれないかと少し期待しなくもなかったが
どちらかと言うと今は追われたくはなかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



いつの間にか残照が消え、昼とは別の活気を持ち始めた夜の街は
ボクに暖かくはなかった。
あてどもなく歩き回るのに少し飽きて立ち止まる。

携帯電話に登録されている番号を見てみる。
プライベートに分類されるものは改めて驚くほど少なかった。
両親、芦原さん、……にはこんな時に電話したくない。

進藤……。
友だちという程でもない関係ではあるけれど。
それくらいの人間が今は丁度良い気がする。


プププププ……
カチッ。


「あ、もしもし。進藤?」

『おう、塔矢か。どした?』

「いや…、そうだ、社の昇段はどうなったかと思って」

『は?何言ってんの?オマエが昨日勝ったって教えてくれたんじゃん』

「……そうだったな。ごめん。実は何となく電話したくなっただけなんだ」

『はははっ。オマエらしくないけどすぐに潔く認める所がオマエらしいな』

「すまない」

『今どこ?家?』

「いや、父の碁会所の近く」

『そうなの?近いじゃん。今から会わない?』

「こんな時間にか?」

『途中まで一緒に帰ろう』


あれよあれよと言う間に、今ボクがいる所に進藤が来てくれる事になった。

息を切らしながら走ってきた進藤は、電話の脳天気な声とは裏腹に
何だか心細そうな見慣れない表情をしていた。

聞くと、どうもボクを心配していてくれたらしい。
電話をした事もだが、声の調子もいつもと違ったようで、何かあったのかと言われた。
勿論何もないと答えた。

その時、ボクの携帯が鳴る。


『アキラくん、』


恋い焦がれていて、聞きたくない声が響いた。
ズキンと胸が痛む。


「……何でしょう」

『どこに居る』

「街ですが。何か?」

『いや……大丈夫か』

「何がですか」


声に精一杯の険を含ませる。
ボクを突き放したのだから、放したままにしておいてくれ。
放り出したり構ったり、ボクの心を弄ぶのはやめてくれ。
そんな抗議を込めて。


『……兄弟子が、弟弟子を心配して悪いか』


優しい言葉でまた気持ちが揺れる。
崩れそうになる。泣きながら縋りたくなる。

でも今は何故かいつもより心が強い。
進藤が側にいるからかも知れない。
兄弟子弟弟子などという言葉を利用して、さっきの事を無かったことにしようとする
そんな魂胆が透けて見える余裕もあった。


「心配なさっているのはご自分の事でしょう」

『……』

「本当に大丈夫です。送ってくれる人もいますし」

『おい、一体誰…』


挨拶もせず、切るとも言わず、いきなりボタンを押した。
こんな無礼な振る舞いはボクの生涯で一度かも知れない。
そんなスペシャルな瞬間を見た進藤は、目を丸くしていた。


「おい、今の誰?つかホント大丈夫か?」


緒方さんと同じ事を言われているのに素直に聞ける。
進藤の天衣無縫な人柄もあるだろうが、彼に対しては緒方さんのような
しがらみがないというのが大きな理由だろう。
などと分析をしている自分は、落ち着いていると思う。
うん、大丈夫だ。

だからにっこり笑顔を作って答える。


「うん、大丈夫。ちょっと失恋しただけ」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



・・・・・・ああ。

・・・どうして寝室にミラーボールがあるんだ?
そもそもここは寝室か?
寝心地は悪くないけれど。

・・・頭が痛い。


「あ、目ぇ覚めた?」


上から進藤が心配そうに見下ろして来る。


「……ここは」

「ああ、悪りい。ビジネスホテルは断られちゃって」


その一言で、慇懃だけれどどこか底意地の悪い笑顔のホテルマンの顔が
フラッシュバックする。

そうだ……進藤に景気づけだと飲みに連れて行かれて……。
「痛飲」というのはああいう事を言うのだろうか。
長い時間ではない筈だ。
けれどボクにしては大変な量を飲んだと思う。


「……そういうホテルか」

「ごめん」

「いや、ボクが悪い。すまない……ありがとう」


水を一杯頼もうと思っていたら、部屋の中で電子音が鳴った。
またボクの携帯だ。
頭に響く。


「すまない……ちょっと見てくれ」

「いいの?」

「ああ」


億劫に頷くと、進藤がボクの上着から携帯を取りだして開いた。


「あ……緒方先生からみたい。どうする?」

「う〜ん……」


ああ……面倒くさい。
何なんだと思うけれど、取らない訳にはいかない気がしてしまうのは
長年身に着いた悲しい習性か。


「取って」

「うん」


進藤は通話ボタンを押して「はい」と言いながらボクに渡してくれた。


『もしもし、アキラくんか』

「はい……」

『今のは誰だ?』

「どうでもいいでしょう、それより何ですこんな時間に」

『こんな時間に誰とどこにいるんだ』

「家です」


即答すると、息を飲む気配。
不味かったかな、と気付いたがもう遅い。


『……嘘を吐いたな』

「……」

『今キミの家の前だが明かり一つ点いていないぞ』


ボクが冗談以外で緒方さんに嘘を吐いたのは、初めてだ。
たわいのない嘘。
別に深い意味もなく吐いてしまった言葉。

それでも緒方さんにとっては十分裏切りと取れるだろう。
何と言っても彼にとって、ボクは忠実な従属物なのだから。

と考えていると、逆に腹が立ってきた。


「スミマセン。嘘です。本当はホテルにいます。さっきの人と」

『なっ……』

「言ったでしょう?大丈夫なんですよ、ボクは」


ボクは酔っている。
「他の人が抱いてくれますから全然大丈夫です」を繰り返そうかと思ったが
進藤の手前やめた。


『送り狼か。自棄になるものじゃない』

「なっていません」

『オレに対する意趣返しだろうが、見当違いだぞ』


ある意味当たっているのが自分で痛々しいが、見当違いは向こうも同じだ。
思い付いた酷薄な言葉に、思わず浮かべてしまった笑いはきっと醜く捻れている。


「自惚れないで下さい」

『……』

「別にあなたじゃなくても全然構わないんですよ、ボクは」


口にしてみると本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
今度は向こうが、いきなり電話を切った。


「おい〜、マジで大丈夫?」

「ん?」

「何かわかんねぇけど緒方先生怒らせたんじゃねーの?」

「うーん……大丈夫だろ」

「らしくねー」

「らしくないか」

「うん」

「らしくなければ、らしくなるにはどうしたら良い?」

「そりゃあもう」


ニヤリと笑って石を打つ真似をする。
そんな反応をしてくれる、彼が好きだ。


「分かったけれどその前にお水を一杯くれる?」

「オマエ、負けても酔ってたからなんて言うなよな」

「言わないよ。緒方さんじゃあるまいし」


進藤から、酔った緒方さんと一局打って勝ったという話は聞いている。
それからベッドの上で並んで寝転がり、天井を見ながらぽつりぽつりと
石の配置を示す声だけが、室内に響いた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



三度携帯が鳴ったのは、中盤に差し掛かった時だった。
いい所なのに……心の中で舌打ちをしながら電話に出る。
やはり緒方さんだった。


「何ですか」

『……』

「今、ベッドの上で正に一戦交えている所です。用なら後にして下さい」


隣で進藤がくすくすと笑っている。
間違ってはいないが、間違いなく誤解を招くであろう言い回しがウケたらしい。


『……アキラくん……』


逆に緒方さんの声は、絞り出したように割れていた。


『何故だ……』


何故も何も。
最初にボクを拒絶したのはアナタでしょう。


『何故だ……オレ達は、上手く行っていたじゃないか』


上手く行っていた?


「そう。あなたに都合良くね」


ボクの恋情を知りながら曖昧な態度をとり続け、
生かさず殺さず弄んだ。
いつも尻尾を振りながら、待てと言えばいつまでも待っているボクは
さぞや都合のいいペットだっただろうね。


「緒方さん、そういうのはね、」

『おまえがあんな事を言わなければ……』

「は?」


ボクの言葉を遮るように、溜息混じりに吐き出された言葉に、

……キレた。

何故その一言が引き金になったのか分からない。
だが、少しは、少しくらいは残っていた「好きだ」という気持ちが
一気に擦り切れた気がした。


「ボクのせいですか?」


自分の声が低い。


「ならあのキスは何ですか?
 どうして今まで、思わせぶりな態度をとり続けたのですか?
 ボクははっきりと態度で表しましたよね?何度も。何度も。好きだと」

『……』

「あなたが拒絶すればボクは途中で止めた。
 拒絶されなかったから言ってしまった。当たり前の事じゃないですか。
 それが読めなかった筈ないじゃないですか」


そうだ。
手に触れても逃げなかった。
腕を掴んだら、振り向いて笑ってくれた。
少しづつ近づく距離。
Aの次はBで、Bの次はCでしょう?



『オレは……オマエが好きだった』

「……」



……緒方さんの言葉に、思考が全て飛んでしまった。

初めての緒方さんからの言葉。
あんなに欲しかったそれが、こんなに虚しい。


『あのままずっと……一緒にいられると思っていた』

「……」

『……軽い口付けで……いいんじゃないのか?
 それ以上望まなくとも、オレ達は上手くやっていけるんじゃないか…?』

「!」


呟くような。聞いたことのないような嗄れた声。
ああ……。

ああそうか。
それで…、その言葉で、腑に落ちた。
混乱と感情と浮かされたような熱とが、一気に醒める。

……緒方さんは、ボクの気持ちを弄んでいた訳じゃなかった。
ボクを好きだという気持ちも嘘じゃない。


ただ、処女のように怯えていただけなんだ。

ボクと深い関係になるのを。
ロマンチックなだけではない世界に踏み込んでしまうのを。



「ふ、ふふ……。ふふふ」

『何だ』

「いえ……ありがとう」


なるほど、最初から目指す所が違えば何もかも食い違うだろうな…。

さっきまであんなに腹の底で煮えたぎっていたものが、今はもうない。
可愛さ余って憎くなっていた緒方さんが、今はまた可愛いと思えた。


けれどただそれだけだ。

少女のように可憐な男。

やっぱり緒方さんは嫌いになれない。

でも、もう恋なんて出来ない。




『アキラくん……』

「さようなら」


電話を切り、天井を眺めながらひとしきり笑う。
我ながら気持ち悪かったと思うが、ふと気付くと
進藤が神妙な顔でこちらを見ていた。


「あ、すまない。どこまで行ったか忘れた」

「いや、いんだけどさ……」

「何」

「オマエが失恋した相手って……緒方先生だったんだな」

「分かった?」

「そりゃ分かるよ」

「ひいた?」

「ひいたね」


進藤には緒方さんのような鬱陶しい可愛さはない。
そしてボクを惑わせる手管も駆け引きも。

緒方さんとは結局どこまで行ってもキス止まりだった訳か……
と思うと、急に欲情した。


「なあ進藤」

「ん?」

「してみよう、って言ったら、どうする?」

「え。オレと?オマエ?」

「そう」

「オマエ……酔ってるな」

「飲ませたのはキミだろう」

「そうだけど。それで、今?」

「うん今」


だってそういうホテルだし。
丁度良いんじゃないの。
なんてね。


「興味ない?」

「いや……興味は、ないではない」

「うん?」

「ただ……、好きとかそういうのんって、ちょっと」

「ああ、」

「別に気持ち悪いとかじゃないけど、基本的にそういう重いの好きじゃなくて」

「ボクも恋とか愛とかそういうのは、もういい」

「んじゃいいよ」


あっさり言って、進藤はきっといつも家でそうするように
軽い足取りでシャワールームに向かった。

小気味良い。

ボクに必要なのは多分、中年男の純情ではなく、少年の軽薄だ。
乙女チックはもう沢山だ。



ボクは鞄を引き寄せて、ポケットに手を入れた。
そこには銀紙で包んだ緒方さんの吸い殻が入っている。
こっそり灰皿から盗んだ、ボクのお守りだった。
持っているだけで嬉しかったものだ。

今思えば何て下らない。

急に汚らしく思えて、二度と来ることはないであろうホテルのくず入れに、
放り込んだ。





−了−






※個人的には乙女チックアリです。そして緒方さん好きです。
 アキラさん、少女漫画から「やらないか」に急転回。デレツン。






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