29.翼をもいで 棋院で
背後に気配を感じて振り向くと進藤がいた。
いつもはこちらの姿を見つけると、遠くからでも声を掛けてくるので
こういった事は珍しい。
不穏な空気を感じた。
「おまえ、ゲイなんだってな」
「……」
……案の定。
似たような局面はこれまでにも二三度あった。
棋院の中でまことしやかに流れた噂。
未だに塔矢行洋に遠慮する者や、自分が確かめていない事は語らないという
常識を備えた者は広げないのでさほど深刻な状況でもないが。
主に、こういった、無責任に無自覚な若い層の間で広がっているらしい。
だからと言って直接訊くか?普通。
などと思っていると眉間に皺を寄せそうになってしまった。
内心慌てて無表情な仮面を被る。
「答える義務はある?」
「んな怖い顔すんなよ」
進藤はへらっと嫌な笑いを浮かべて身を翻した。
彼が晩の七時頃、ふらりと自宅を訪ねてきたのはその数日後だった。
「晩メシまだだろ?これ……」
「もう食べた」
「うそ。早え〜!」
だいたいアポイントメントも取らず、こんな時間に他人の家を訪問するのは
人に対して礼を失しているだろうというような事を言うと、
「だってオマエ携帯壊れてるじゃん。
それに行洋先生もかーちゃんも今いないんだろ?ならいいじゃん」
ボクは人の内に入らないらしい。
確かに両親はいないが。
しばらく日本でゆっくりすると言っていた割に、立て続けに仕事が入っている。
「なんか急におまえと打ちたくなってさ」
そんな事を言いながら進藤はするりと家の中に入ってきた。
かといって碁盤は居間の片隅から動かされる事はなかった。
持ってきた酒を是非一緒に飲もうなどと言って
勝手に台所にコップを取りに行く。
「飲まないよ」
「なんで?」
「酒は好きじゃない。付き合いじゃなければ飲まない」
「なんだよ、オレには付き合えないってか」
「そうだね。どうしても断れないしがらみがあるという訳でなし」
「オマエのそういうとこ、……いいや。んじゃ一人でやらせて貰うぜ」
ご自由に。と言いたいところだが、ここはボクの家だ。
進藤がここで飲んだくれて良いわけがない。
「飲むのなら帰れ」
「いいじゃん。固いこと、」
言いながら酒の瓶を引き寄せて、蓋に手を掛けたところで。
「言わっ!」
その手首を掴んでぐっと引き寄せた。
「なに、すんだよ!」
体勢を崩した所を難なく押し倒し、上からのし掛かるようにしてその丸い目を見下ろす。
「何……すんだよ」
進藤はボクの下で、抵抗もせずただ目を見開いていた。
思ったよりずっと素早くクールダウンした声。
その声に、微かな……気を付けていなければ分からない程微かな
甘い響きが混ざったのを確認してボクは満足した。
「周りくどい事するなよ。これが狙いなんだろう?」
「な、何の話……」
「ボクを酔わせるつもりだったのか」
「……」
「さっきも言ったようにボクは飲まない。
このままキミを抱いたら帰るか?」
「……」
「それとも、キミが、抱くのか」
進藤は答えず、ボク達は上と下とで長い長い間見つめ合った。
彼が棋院で例の質問をした時、その表情は他の人たちと違った。
「変な噂を聞いたんだけど」と恐る恐る口を切った兄弟子。
ボクの返事を待たず、「そんな訳ないわよね」と冗談に流した顔見知りの女流。
進藤だけが、明るく期待に満ちた顔で訊ねてきたのだ。
この上なく程ストレートに。
一人で歩く暗い夜道に、漸く仲間を見つけた旅人のように。
「……取り敢えず、体重掛けんのやめて。痛い」
「……」
「抱いて、いいの?」
恐る恐る首に腕を回そうとするのを、勢いよく払いのけてボクは体を起こした。
「悪いがボクにはそういう趣味はないから」
「!!今、」
「キミがゲイかどうか聞いただけだ」
「……」
大きな口を開けて、何か喚くかと思ったが進藤はそのまま黙り込んだ。
ボクは他人のセクシャリティに踏み込むつもりはない。
人を傷つけて喜ぶタイプでもないつもりだが、彼に関しては
先に無礼を働いたので多少こらしめてもいいと思った。
進藤がゲイだという事には、悔しいが本当に驚かされた。
きっと棋院にも仲間にも伏せておきたい事だろう。
弱みを握ったような形になるが、それは悪い事ではない。
止めさせられるかも知れない。
進藤の子どもっぽい小さな嫌がらせの数々。 ボクの噂も、誰かがボクに悪意を持って流したものではなく
何かの拍子に進藤と取り違えられたのか。
そんな事をとりとめもなく考えていると、下にいた進藤が急に吹き出した。
「はっ、ははっ!ゲイじゃねーよ!」
「でもさっき、」
「オレは嘘吐きだからな。おまえ最近暗かったじゃん?
んでゲイだって話だから、慰めてやろうと思って」
ゲイでない男が、慰めるだけの目的で男と関係を持てるものだろうか?
それともそこまでするつもりはなかった?
いつもの悪ふざけ?
「ま、おまえがそうじゃないんなら、見当はずれな事したな」
言いながら進藤は身を起こしてきた。
どうなんだろう。
しかし、そうでないと言うのなら、そうでないのだろう。
「ああ。ボクはゲイじゃない。誰がそんな噂を流したんだろう。
キミは誰から聞いた?」
「さあ。覚えてない。覚えてても言えないじゃん。デマだって分かった以上」
それはそうだが。
進藤ならさらっと口を滑らせそうな気がしていた。
こんなはぐらかし方をして、ボクの軽率な質問を諫めるような事まで
するとは思わなかった。
進藤が、知らない男のように見えてきて少し気持ち悪くなる。
そんなボクを尻目に転がったままだった酒の瓶を引き寄せ、
コップに半分ほどとくとくと注いで、目の端で笑いながら一気に飲み干した。
ぷん、と立ちこめる麹の匂い。
何となく気を飲まれて何も言えないでいると、進藤が再び「ふふっ」と笑った。
こちらに一つ膝を進めて来たので、また酒を勧められるのかと思ったが、
「それにしても、さっきのオマエ。かっこよかったな」
「……」
「『抱いたら帰るか』って」
ああ、そうだ。
恥ずかしい事を言った。
あの時は進藤が「そう」なのだと確信していたし、
少し意地悪してやろうと、調子に乗っていたのだ。
「男っぽいよな」
進藤はもう一つ膝を進めて膝頭と膝頭が触れるほど近づき、
ゆるゆるとした仕草でボクの耳元まで口を近づけた。
「……男でも、濡れちゃうよ」
「な、」
囁くと同時に、先程とは全く逆にボクが不意を突かれて押し倒された。
気付いたら進藤の顔に上から見下ろされている。
その肩越しに、釣り電灯の光が眩しい。
「……もう、酔ったのか」
「いや」
酔ったと言って欲しかった。
冗談だと笑いながら、ボクを引き起こして欲しかった。
だが……進藤の目は、笑っていなかった。
「また嘘、か」
「何が?」
「全部。何が本当なんだ?」
進藤はもう一度「ふふっ」と笑って顔を近づけてきた。
避けるべきか、逃げずに睨み返しつづけるべきか、
迷う内にどんどん近付いてきて。
ガツッ
歯と歯が当たった。
と思うと離れた。
「オレもゲイじゃないってのは本当だよ」
「は?」
こんな事をしておいて?
唇まで触れておいて、嘘だ冗談だで通用すると思っているのか?
「違う。オマエが、オレをこんな風にするんだ」
下半身に、固い物が……。
「オマエだけに、オレはこんな風になるんだ。
オマエがゲイだって噂が流れてから、オレ、」
今度は顔を押さえられ、逃げるという選択肢を封じられたが
歯も当たらず用心深く唇だけがまさぐられる。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪いセリフ。
ボクが進藤をこんな気持ち悪い人格にしたと言うのか?
やめろ。
人のせいにするな。
「濡れちゃう」?
ふざけるな。
酔っぱらいの戯言には付き合っていられない。
酒臭いっていうんだよ。
それに、それに、
パシッ!
不意に右手が空いている事に気付き、同時に考える間もなく
進藤の頬を掌底で勢い良く押していた。
口の中から進藤の舌が抜け、唾液が気持ち悪く糸を引いて頬に
べちゃりと落ちる。
冷たい。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
ごくりと、固形のように嚥下しづらい唾を飲み、
「キミは、嘘吐きなんだろう?」
全部、嘘だ。
そう言え。
「ああ、そうだよ」
「今日の事は全て嘘だったな?」
「いや、違う」
「……」
「おまえに本気なのは本当だし、それに、」
今日は終わってないよ、という呟きは本当に聞いた声だったのか、
後から補ったニセの記憶なのか。
頭がふわりと揺れ、脳震盪?薬?盛られた?いつ?
考えるか考えないかの内に、視界が暗く落ちた。
何気なく頭を動かした時、頭部がやたら痛んで目が覚めた。
まだ脳が揺れているような気がする。
瞼を揉もうと思った時、手首が着ていたシャツで拘束されている事に気付いた。
「何分……寝ていた」
「あ、気が付いた?えーっとね、五分四十五秒」
進藤は脇に置いてあった携帯電話を取り上げ、
そのデジタル表示を確認してさらっと答えた。
ボクがまずその質問をする事を予想していたのか。
思ったより進藤に性格を読まれている。
注意深く観察されている。
……洒落にならない。
「それと、何のつもりだこれは」
シャツが脱がされ、自分の手が括られている他に下半身も
全て脱がされていた。
短時間によくも手際よくやったものだ。
「……分かるだろ?」
また耳に口をつけて、今度はねっとりとした声で囁く。
「好きだから。どうしても欲しいんだ」
狂ってる……。
先程とは比べものにならないほど気持ち悪い筈だが、
もうメーターが振り切れて何も感じなかった。
「おまえも酷いよな。その気もないのにオレを押し倒して」
「……」
「期待しちゃったじゃんよ。あやうくやりそこなう所だった。油断して」
と言うことは、彼はボクを抱くつもりなのか。
どうしても。
辛い。辛い。
どうしていいか分からない。
「もし……もし、ボクがゲイだという噂が流れなければ、
そんな気にはならなかったのか」
「歴史に『もし』はないぜ。なーんてな」
「答えになっていない」
「なってるよ。『もし』はないって言ってるじゃん」
進藤はとろけそうな顔で、ボクの腹を触り、胸を撫で、首を掴んだ。
「おまえがゲイじゃないなんて、最初から分かってる」
「……」
「こっちだって色々考えてんだよ。万が一でもおまえがオレに気があったら
こんな強引な事しなくてもいいって。そうだったらいいなって」
自分がゲイだと隠したまま、ボクを誘惑するために。
酒を持って訪れた。
そうだ、進藤は言わなかった事はあったが、嘘など最初からついていなかったのか。
自分が嘘吐きだと言った、あの言葉だけが嘘だったのか。
いや、「『もし』はない……。
「そうだよ。おまえがゲイだって噂を流したのは、オレだ」
「!」
「今日の日までに、いくつもいくつも布石を敷いたよ」
顔が青ざめるのが分かる。
「行洋先生に仕事が入るように動いたの、オレだよ。
途中で邪魔が入ったり助けを呼べないように、おまえの携帯壊したのもな」
ボクに「ゲイなんだってな」と聞いた時の嬉しそうな嬉しそうな表情も。
全て計算か。
「でも、どんなに回りくどく網を張っても、結局物言うのは力だな。
現実世界では」
いや……、
「負けたよ」
力なんかには、負けはしない。
進藤がただ強引にボクを犯そうとしただけだったなら、
舌を噛んででも阻止しただろう。
でも、中国棋院にまで根回しをして。
ボクの携帯を、いつ触ったのだろう。
ボクが本当にゲイである可能性も計算に入れ、
口説き落とすか酒で落とすか、薬で眠らせるというのはきっと
彼の中で最悪のシナリオだったのだろう。
それでもボクの自由を奪う事には成功した。
深く息を吐きながら、のし掛かってくる進藤の体重を受け止めながら
ボクはもうその顔を見ていなかった。
なるほど。ボクにもようやくこのゲームのルールが分かった。
狂った進藤の、狂ったゲーム。
次はそうやすやすとは詰ませない。
ボクの方から罠に掛けてやる。
いつの間にか、ただ二回戦を待ちこがれる自分がいた。
−了−
※ ま、身も蓋もない言い方をするとあり得ない話なわけですが。
(アキラさんの間抜けさ加減とか瞬間的に意識を失わせる薬とか)
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