19.月をつかまえる エレベーターで一階に降り、扉が開くと、ホールで立ち話をしてたっぽい 塔矢と越智が、軽く手を上げ合って離れていくのが見えた。 塔矢は顔の横あたりで軽く振ってたみたいだけど、越智の方は 胸の前まで一瞬掌を上げただけ。 そんで二人ともオレに気付いていない。 そのまま塔矢は玄関の方へ去り、越智の方はまだ用事があるのか奥を向いたので オレと向き合う形になった。 「よう」 「なんだ進藤か」 「進藤『さん』だろ」 「つけても『くん』だ。つけないけど」 このやりとりをするのは三回目か。 分かっていてもついやっちゃう。 「塔矢と何しゃべってたの?」 「別に。今日の対戦、中盤の展開の良かった点について」 「褒めてくれたんだ」 「ああ」 さっきの柔らかい微笑み。 越智の棋譜をまめにチェックして、機会を見つけてアドバイスしてるのか。 へぇ。面倒見良いな。 ふ〜ん、そうなんだ…… 「どうした?」 「別に〜。アイツ、オレにはンな事言った事ないなって思っただけ」 越智は一時とは言え、指導碁をした相手。 義理、だとは思う。 そんないつまでも、と思うけど真面目なアイツらしいと言えばアイツらしい。 それでも。 「オレはあいつに褒められた事ない」 正確に言えば一度あるけど、それは佐為に対してだから。 自分が今、多分子どもみたいなツラしてるだろうと思ったけど 止められなかった。 「……ふ〜ん」 越智は逆に、大人びた複雑そうな顔をした。 複雑、というより不愉快、と言った方が近いかも知れない。 オレが何だよ、と目顔で訊くと。 「塔矢は、普通プロは褒めないよ」 あーそうですか。自分は塔矢にとって普通でないとでも? と、ふてくされていると。 「塔矢が棋士を褒めるのは、完全に相手が自分より下だと思っている時だけだ」 「……」 「相手が一生かかっても絶対自分に追いつけない。 そう確信してやっと、相手を褒める」 「……」 「そういう人だ」 越智は淡々と続けた。 オレは何も言わなかった。 その意見に不賛成というわけじゃない。 むしろ「なるほど、上手いこと言うなぁ」と言いたいくらい。 ただ、驚いてたんだ。 越智の、観察の細やかさと的確さと。 ……その涙に。 富士山より高いプライドが、認める事を阻むだろうに。 それを認め、よりによってオレみたいなのの前で口に出来てしまう。 その真っ直ぐさと、 その後多分自分でも思いがけなく零れてしまった涙に戸惑っている様子に オレは遠い昔の誰かさんを思いだしたんだ。 「……塔矢だって、強い人をすごく褒める事もあるぜ」 「ああそうだね。行洋先生とかね」 「いや、って待てよ!」 「何だよ。車待たせてるから。じゃあ」 「おい!」 越智の腕を掴んで引き留める。 「離せよ!」 「待てって。一人でしゃべって消えるんじゃねーよ」 「聞いて来たのはキミだろう?」 そうだ。 オレはただ、塔矢が越智に何を話したのか知りたかっただけだ。 越智の方がどう思おうが関係ない。 けど。けど。 「アイツだって、オレだって、ずっと月を追いかけて来たんだ」 「……何の話だ?」 眉を顰めてメガネに触る。振りをして涙を拭う。 何の話かって、オレだって、そんなの良く分かんないけど。 「絶対に追いつけないと思っても、そんな事認めない。 つかまえるまで諦めない」 話している内に何となく、纏まってきた。 オレは越智に、堂々と手を振ることも出来ないような気後れを感じて欲しくないんだ。 誰に対しても。 「でも、月をつかまえるなんて。無理なもんは無理だろ?」 「無理じゃないんだよ。諦めるまでは」 「……」 呆気に取られてる。そりゃそうなるよ。 そんでもしばらくじーっとした後越智は、久しぶりに、すごく久しぶりに、笑った。 「進藤今、珍しくいい事言った」 笑うとちょっと子どもっぽくなるけど、その方が印象いいのに。 ってオレも珍しく思ったのに、またすぐにいつもの仏頂面に戻る。 「けどそれでボクを慰めてるつもりなら余計なお・世・話・だ!」 今度はオレが呆気に取られた。 そんなつもり全然なかったから。 「んだよー!そんなんじゃねっての!」 「それにそれ、前塔矢にも同じ事言われたからありがたみがない」 「……」 「キミも塔矢から聞いたんじゃないの」 うわー、失礼な事言われてる。 けど、塔矢も、同じ事言ってたんだ……。 なるほど、塔矢が追い続けている月はオレが追っているのと同じだ。 けどそれはオレ達だけのではなくて、世界中の人の為の月。 だから越智。オマエも諦める必要なんてない。 ……と、言おうかと思ったけど言わなかった。 また余計なお世話って言われそうだし。 それも塔矢も言ってるような気もするし。 「そうだキミ、今日誕生日なんだってね」 「え?あー、ああ」 「それもさっき塔矢が言ってた」 ……塔矢のおしゃべり。 そりゃ自分で宣伝はしたけど、誰にでも知って欲しかったんじゃない。 オマエに、オマエだけに、祝って欲しかったんだ。 「……オメデト」 「え?今なんて?」 「じゃ。今ならまだ塔矢に追いつけるよ」 ひらひらと手を振って、丁度降りてきたエレベーターに乗り込む。 オレは、何かに置いてけぼりを食ったような気がして 越智にもう一度聞き返すことも、塔矢を追いかける事も出来ずに立ちすくんだ。 −了− ※エロチシズムはどこへ。
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