3.月が見てる ふと、窓の外を見たらあまりにも月がきれいだったので。 自分にそんな言い訳をした出張先のビジネスホテル。 オレは塔矢の部屋の前に来ていた。 風呂上がり、Tシャツとジーンズ。 人通りの多い町じゃないし、夜の散歩と洒落込んでもいいよな? 同僚を、同性のただの同僚を誘っても、おかしくないよな? コン、コン。 「塔矢さん、いる?」 塔矢を「塔矢さん」と呼び始めた時の事はよく覚えている。 一年前の、ある、雑誌の対談だ。 同じ年でお互いタイトルホルダーで、何かと話題になってはいたけれど 対談の仕事をしたのは実は始めてだった。 『……進藤さんが、団長をすればいい』 この時初めて「進藤さん」って呼ばれた。 距離を感じた。 後で考えれば、十代じゃないんだからそろそろ大人なんだから。 「さん付け」に移行する良い機会だ、と思っただけかも知れない。 でもその時のオレは「キミとボクとは他人だ」と言われたように思った。 丁度、緒方先生の家で一夜を過ごしたすぐ後で。 オレの恋心というか劣情は、言いふらされはしなかったけれど塔矢には伝わっただろう。 塔矢の目を見られないままの日々が続いていた、その頃の対談だった。 『……指導に関しては、塔矢さんには敵わないし』 だからオレも、オマエとオレは確かに他人だ、 二人の間には一定の距離があるから安心しろ、って伝えたくて。 初めて「塔矢さん」と呼んだんだ。 そのお陰かどうか分からないけど、以前のように個人的に打つ事も 出来るようになってきた。 「知人の域を出ない」距離を感じながら、だけど。 「……進藤さんか」 ドアを少し開けた塔矢は、「嫌ではないけれど、なんで?」という顔をしていた。 そう、だよな。 やっぱおかしかったか。 「知人」だもんな。 「あの、えと。用って事もないんだけど、月が、きれいだから、」 「月……」 「うん!すっげーきれいなんだ。塔矢さんも見てみろよ」 ドアの中で、塔矢が窓の方を振り向いた気配がする。 「んじゃ、」って帰ろうと思ったら、目の前のドアが大きく開いた。 「どうぞ」 背を向けた塔矢は浴衣を来ていて、襟元が色っぽいなー、 ……じゃなくて。 え、部屋に入れてくれんの?まさか? でも、塔矢はどんどん奥へ歩いて行く。 って事は、後から入ってドアを閉めろ、って意味だよな? 「いいの?」と聞いたら「駄目だ」と言われそうで。 オレは無言で部屋に入ってドアを閉めた。 「……本当だ」 「な?すごいよな」 塔矢がいきなり電気を消すからギョッとしたけど、その事によって 窓が明るくなった。 大きな月と、月光に照らされた町並みがよく見える。 ……窓枠に片手をついて、月を見上げる塔矢もよく見えて。 月と同じくらい美しいと思う。 「何?」 思わず見とれていると、不意に塔矢がこちらを向いた。 「いや、あの、その浴衣、」 「このホテルは、言えば浴衣を貸してくれるんだ。 寝間着を持って来るのがちょっと億劫で」 ちょっと後ろめたそうに言うけれど。 オレなんか、寝間着どころか明日着るTシャツとトランクスで寝ちゃうぞ。 また、月に目をやって。 どうして部屋に入れてくれたんだろう。 何を話せばいいんだろう。 一緒に月を見た、から、もう出ていった方が良い? でもせっかく!また塔矢との距離を縮めるチャンスなのに。 いや、これは運命の罠だ。 ここでオレが勘違いしたら、今よりもっと距離が開くに違いない……。 月なんか、見ているようで全然見ていなかった。 「あの、」 「うん?」 友だちみたいに振る舞うんだ。 普通の友だちみたいに。 これは塔矢じゃなくて和谷だ和谷! 「ビール飲もうか。塔矢さんのおごりで」 親指で部屋の冷蔵庫を指さしながら冗談めかして言えば、 「バカを言うな」とか何とか呆れながら言ってくれて、 知人から友だちに格上げしてくれるんじゃないかって。 思っただけなのに、塔矢はちょっと困ったように微笑んだ。 「良いよ」 「え、ほんと?」 「ああ」 その声も表情も落ち着いていて、ああ、コイツはオレよりずっと 大人なんだなぁって改めて思う。 オレとの事なんか、塔矢の中ではずっと昔に消化された事で 今更緊張したり感情を波立たせる程の事でもないんだろう。 「じゃ、月を肴に飲みながら打つか」 「いいね」 だからオレも、精一杯大人ぶって。 好きだと叫びたい気持ちを抑えて、押し倒したい気持ちを抑えて 大人しげな声を出すよ。 カチ、カチカチ…… 携帯碁盤の、マグネットの石がテーブルの上に転がる。 「お先にどうぞ」 「いいの?」 「ああ」 「んじゃ、おねがいします」 「おねがいします」 電気を点けずに暗い部屋の窓際で、 月光を頼りに碁を打つ。 佐為がオレと出会う前に打っていたのも、こんな碁だろう。 静かで、穏やかで優しい時間。 カチ。 「本当に、月がきれいだな」 「ああ……ボクもそう思う」 「だな!」 塔矢と、同じ月を見て同じ感動を分かち合える事が 本当に幸せだと思う。 「……進藤さん」 「ん?」 「月がきれいで酒が上手くて、目の前に最高の碁敵がいて」 「うん……」 「こんな時間が過ごせるなら、ボクは死んでもいい」 「え?」 「と思ったりするよ」 オレに聞かせる為というよりは、独り言みたいに呟いた言葉に、 死んでもいいなんて過激なセリフが入っていて思わずギョッとする。 でも、塔矢の顔を見ても普通に碁盤を見て普通に考え込んでいるような表情だった。 最高の、碁敵、か。 聞きようによっては、碁以外の関わりを断る、オレの碁以外興味ない、とも取れるけど。 やっぱり、碁バカのコイツからすればこの上ない言葉だと思う。 素直に嬉しい。 塔矢にそんな言葉を言わせる事が出来た事が。 「……縁起でもない事、言うなよな」 照れすぎてぶっきらぼうな声になったのに驚いたのか、 塔矢は顔を上げて、少し目を見開いた。 その後、また俯いて、今度は碁盤を見ずにクックッと笑う。 「何がおかしい?」 「いや、キミらしいと思って」 ホントに、何がおかしいんだろ。 笑い所が分からない。 「オマエが死んだら、オレの方は碁敵をなくすじゃんか。 勝手なこと言うなよ」 「それもそうだね。済まない」 微笑みながら伏せる、その睫毛。 他人行儀。 誰にでも愛想が良くて。 距離を置くための微笑。 それでも。 その美しさには罪もなくて。 ……駄目だ。 友だちなんて、無理だと思った。 知り合いじゃ寂しい。 友だちにすらなれない位なら、いっその事嫌いになりたい。 そう思ったこともあるけれど。 無理だ。 オレは、塔矢を、 不意に手を伸ばし、自分の手首を掴んだオレを、 塔矢は不思議そうな顔で見返してきた。 「塔矢……」 「……」 「ごめん」 先に、謝っておくよ。 謝らなくちゃならないような事を、するよ。 きっと何の事か分からない、ポカンとした顔をすると思ったけれど、 意外にも塔矢は、またあの困ったような微笑を浮かべた。 「……月が、見てるよ、進藤」 「見せておけ」 「……」 今日の一節。 ……星の数ほど男はあれど 月と見るのはぬしばかり --了-- ※終わりなの?ここで終わりなの?
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