1.うなじに蝶々 夢を見た。 夢の中でオレは蝶になっていた。 蝶のオレはひらひらと飛び回り、楽しんでいた。 やがてしばらく飛ぶと、どうも見慣れた景色に出会う。 あ。塔矢んちだ。 屋根からではあるけれど、一度合宿で泊まりに来た塔矢の家に 違いなかった。 ひらひらと庭に降り、夜通し碁を打った座敷を懐かしく眺める。 外から見た事ないのにどうして分かるんだろう、と不思議に思って、 その疑問が湧いた事自体に、これが夢だと気付かされた。 更に飛び、家を半周回って裏庭に行くと、窓際に机の置いてある 部屋が見える。 思い切って入ってみると、その机に誰かが突っ伏していた。 黒い真っ直ぐな髪の少年だ。 ていうか塔矢だこれ。 周囲を見回してみると、本棚には棋譜集、机の脇には布を掛けた足つき碁盤。 全体に古くさい雰囲気だけれど、学習机が少年らしい。 その机に乗ったPCが唯一現代風で、やたら浮いている。 どうやら塔矢は、棋譜を見ながらうたた寝してしまったらしい。 そう言えば最近忙しそうだった。 碁の勉強したいなら、ちゃんと休み取らなきゃ。 などと余計なお世話な事を考えながら、その周囲を飛び回る。 塔矢をこんなにゆっくりと観察したのは初めてだった。 すう、すう、と寝息が聞こえそうな程、背中の真ん中辺りが上下している。 突っ伏しているので顔は見えないけれど、さらさらとした髪が うなじで分かれて首の両側に垂れていた。 髪が黒いから、肌が余計に白い。 白くて滑らかだ。 蝶のオレには、それがたっぷりと蜜をしたためた白い花に見えた。 吸い寄せられるように、うなじに舞い降りる。 視界の中、繊毛のついた昆虫の足がしっとりと温かい肌に触れるのが 汚しているようで少し申し訳ない。 さて、塔矢が起きたらすぐに逃げられるようにゆっくりと羽ばたきながら 様子を見たけれど全く気付いていないようだった。 羽を閉じて、落ち着く。 髪の毛の、独特のにおい。 肌の……何だか甘い匂い。 立ちのぼる体温。 男のものだというのにそれらは全く不快ではなく、どちらかというと オレを気持ちよく酔わせるものだった。 そしてどういう訳か、オレはそれらに食欲を覚えていた。 夢だから、いっか。 そう思った途端、口がするすると伸びてストローのようになる。 目の前の、餅のような果肉のような肌に注射のように突き刺すと 口の中に甘い蜜が溢れて、恍惚となった。 どの位そうしていたか。 一瞬だったかも知れない。 ふと気付くと塔矢が起き上がり、顔を少し横に向けている。 うわっ、気付かれた、と慌てて口管を抜いて飛び立つと そこに血が滲んだのが見えた。 ひらり、と天井近くまで舞い上がった所で、振り向いた塔矢と目が合った。 そこで目が覚めた。 オレも自室でうたた寝をしていたらしい。 妙な夢を見た……なんだかやたらリアルで。 日も暮れて薄暗い部屋でぼうっとしていると、水槽の中にでもいるようで 今の方がよっぽど夢のようだ。 ……そうだったりして。 オレは本当は蝶で、さっき初めて塔矢と出会った。 その外見や部屋の様子から、あっと言う間にその職業やプロフィールを 組立て、自分も彼と関わりのある人間であるという夢を見ている……。 塔矢の部屋が、本当にあの通りだったらどうしよう。 なんてね。 次の日、棋院で塔矢と会った。 昨日オマエの夢見たぜ、って言おうかと思ったけれど そのうなじに止まって吸い付いたなんて、口に出すと何だか 気持ち悪いと思われそうなのでやめる。 けれど、しばらく話してふと俯いた時に、首の後ろに絆創膏が 貼ってあるのが見えた。 「あれ?」 「ん?」 「どしたのそれ、ここんとこ」 「ああ、」 塔矢はうなじに手をやって、妙な目でオレを見た。 その目は、昨日夢の中で目が合った時の事を思わせるもので オレは少しぞっとする。 「珍しいんだけど。昨日蝶に刺されたんだ」 「蝶に?」 「そう」 どういう事だ、どういう事だと思いながら、塔矢から目が逸らせない。 肌で棋院の雑音を感じ、これは現実だと自分に言い聞かせて 足をかろうじて地に繋ぎ止めた。 「蝶は刺さねーだろ。同じ部屋に蚊か虻か何かいたんじゃねーの」 「いや、蝶だよ」 自信ありげににやりと笑う。 知ってるくせに、とぼけるなよ、とでも言いたげな笑いで オレはまた背筋が寒くなった。 「黄色と黒のキレイなアゲハチョウだった」 「……ふーん」 「不埒なヤツだよ、ボクの血を吸うなんて」 ふと、気になった。 まさか、まさか…… 「……で、その蝶どうしたの」 「決まってるじゃないか」 目の前でぱん、と手を叩かれて心臓が止まりそうになる。 「殺したのか!」 腰を抜かしそうになったオレの様子がよっぽど可笑しかったのか 塔矢は体をくの字に折って笑った。 凍り付いたオレを尻目にひとしきり笑ったあと、 「殺した筈がないじゃないか」 また怖い笑いを浮かべてオレを見た。 筈がないって、それはまるで、 「安心しろ。捕まえて大事に籠に入れてあるよ」 「……」 「責任をとって死ぬまで飼われて貰おう。ボクの血をやっていれば大丈夫だろう」 血で蝶を飼うなんて悪趣味だ、と笑い飛ばしたかったけれど 出来なかった。 「籠の中は多少不自由だろうけど、まあせいぜい長生きして、」 塔矢の手がするっとオレの腕に絡んだ。 ひんやりしている。 強い力じゃないのに、ふりほどけない。 「ボクを楽しませておくれ」 甘い蜜を湛えた白い花だと思ったあの肌は 巨大な蜘蛛の巣だったのか……? 眩暈を堪えながらそんなことを思った。 −了− ※うなじに蝶々。 本来は髪を束ねるか、それとも裸エプロンか何かの事だと推測するわけですが (首の後ろで蝶々結び)。
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