096:溺れる魚
096:溺れる魚











誰だ・・・。
若手棋士の親睦会をしようなんて言いだした奴は。

そんで、それをこんな登山にしようだなんて言いだした奴は!




ってオレが悪いんだけどさ。

みんなでバラバラ下山してる時、疲れたんで一人で岩に座った。
前の奴はもう行っちゃってるけど後ろに和谷達がいたんで、あいつらが追いついて来るまで
一休みするつもりだった。

傾き掛けた日。
でもまだ空は青くて、向かいの山肌は緑で、ひんやりと湿気を含んだ山特有の空気が美味くて。
低い崖の端っこに立って今この景色の征服者はオレだなんていい気分で大きく深呼吸したその時。

足元の土が崩れて、枯れ葉に足を滑らせて。
「わーーっ!」と叫びながらオレは斜面を尻でずるずると滑り落ちた。


「ってえ!」


やっと止まったのは下の小川に足から突っ込んでから。


「冷てえっ!」


ひいこら言いながら慌てて出て、足をバタバタさせながらリュックを下ろした時に


「進藤?!」


上から降ってきたのは塔矢門下の人たちとずっと前にいたと思った塔矢の声だった。






「どうした。大丈夫か。」

「あ、塔矢?うん。大丈夫。」

「怪我はないか。」

「ああ。悪い。すぐ追いつくから先に行ってて。」

「そういう訳にもいかない。」


・・・バカだろ。ホンットバカだろ。
塔矢はどういうつもりか足で慎重に滑り降りて来て、やっぱり途中でこけて、
ごろごろと転がってきて、また派手にばっしゃーんと腹から川に落ちた。

オレたちは、顔を見合わせて盛大に笑った。
塔矢とこんなに笑い合ったのは初めてだった。

そして、それが最後だった。

上の道からそんなに高さもない斜面、でも濡れた体でよじのぼったら汚れるだろうからなんて
川沿いに下ったら服が乾く頃には集合場所の広場に出られる筈だなんて。

その川が、どう考えても越えられない岩の間に吸い込まれているのを見て、
引き返した時にはすっかり日は隠れて、一体何処から元の道に戻れるかなんて
分からなくなっていたんだ。


「なあ。」

「うん?」

「考えたくないんだけど。」

「・・・・・・。」

「これって・・・遭難・・・?」


遂にそんな言葉が出た時には既に辺りは真っ暗になっていた。







オレはケータイ持ってないし、塔矢のはさっき川に落ちた時に水に浸かって
ダメになったらしい。


「前テレビで言ってた。こういう時は動かない方がいいんだよな。」

「ああ。それに申し訳ないが、ボクはもう・・・歩けそうにない。」


少し前から足を引きずっているのには気付いていた。
多分靴ズレにでもなったんだろう。
歩き慣れてなさそうだもんな〜。
オレたちは、川岸の岩陰に塔矢のピクニックシートを敷いて休む事にした。

塔矢はオレのせいだなんて言わなかった。
確かにオレが落ちなかったらコイツも下りてきてないし、こんな事にもなってないだろうけど
塔矢がずぶぬれにならなかったらオレだって自力であのまま斜面を登って
すぐに合流できたはずなんだ。

どちらのせいでもない。
少なくとも今そんな事を言い合って、これから少なくとも十数時間一緒に過ごさなければ
ならない奴と仲違いなんてしたくなかった。






夜の山というのは、どうしてこれ程までに恐ろしいんだろう。

闇が深すぎる。
そして、静かすぎる。
月明かりも、この谷間の底にまでは差し込んで来ない。

二人で膝をかかえて、何を話す事もなく。
だって塔矢と碁以外の話なんかしたことなくて、こんな状況になってしまうと
まるで知らない奴みたいなんだ。
座り込んで交わした会話と言えば、


「腹・・・減ったな。」

「・・・ああ。」

「あ、そうだ。オレ菓子持ってんだ。食う?」

「いや・・・いざという時の為に置いておいた方がいいと思う。」


いざという時ってなんだよ!縁起でもない事言うなよ!
そんなツッコミを入れる気力もなく。

今頃、大騒ぎになってるだろうなぁ。
捜索隊とか出されてるかなぁ。
そんなに山奥じゃないし、凍死するような季節でもないから大丈夫だろうなぁ。
父さんや森下先生にも怒られるだろうな。
でもそう考えると、塔矢先生に怒られる塔矢よりはマシかなぁ。


ざざぁっ・・・。


時折頭の上の木々を揺らす風。
もう小鳥の声も聞こえないけど、絶え間なく聞こえる・・・、獣の声?
じー・・・とずっと鳴ってるのは虫が立てる音?
静かなのに、うるさい。
近くの落ち葉がかさ、と音を立てる度に震えそうになる。

木が、岩が、山が、闇が、一斉に襲いかかって来るような気がする。

この景色を自分が征服しただなんて、昼間はどうして思えたんだろう。

なんてちっぽけで、無力で、
枯れ葉を踏んだ時に下にいたであろう虫のように、ぷち、と
いつでも死んでしまえそうな自分。

気が、狂いそう。
いや、塔矢が側にいてくれなかったら、きっと叫びだして闇雲に走り出してた。
冷静でいられるのは、自分一人じゃないからだ。




まだ乾いていない靴が、パンツの裾が気持ち悪い。
靴と靴下を脱ごうと思って上半身を屈めた時に、隣にいる塔矢が
微かに震えているのに気付いた。


「あ、おまえまだ服濡れてんじゃねーの?」

「・・・うん。」

「脱げよ。風邪ひくぜ。」

「いや、いい。」


歩いている間は暑かったのに、座った途端に熱は引き、どんどん気温も下がってる。
相当寒いはずだ。


「ダメだ。凍え死んだらどうすんだよ。」

「まさか。」

「困るの。オレが。」


シャツのボタンに手を掛けると、仕方なさそうに溜息をついて「自分でやる。」と
脱ぎ始めた。

夜目にも白い、塔矢の肌が浮き上がる。


「下も脱げよ。」

「いやだ。」

「暗いから見えねーって。」

「そうじゃなくて余計に寒いだろう。」

「濡れたもん着てるよりマシだろ?」


オレがTシャツの上に着ていた上着を脱いで差し出しても「キミが寒いだろう。」
と押し返す。
裸で何言ってんだよ。


「あ、そうだ!」


いざというときの為に持ち歩いているレインコートがある。
頼りないけど、長さもあるし風も防げるし、ちょっとはマシだろう。

結局不承不承パンツも脱ぎ、大きいレインコートを羽織ってくるまった塔矢は、
小さい子どもみたいに見えてちょっと可笑しかった。







今、何時だろう。

ライト付きの時計はリュックの中にあるけど、ゴソゴソ探しすのも面倒で見ていない。
いや、本当は、見るのが怖いんだ。
思ったより時間が経っていなかったら辛いから。

尻から冷気がゾクゾクと駆け上がり、ぶるっと震えてしまう。
「あ゛ーっ!」と叫んで立ち上がり、その場で駆け足をして、少し体が暖まった頃に
座ったが、またすぐに寒くなった。

レインコート一枚で静かに隣で座り続けている塔矢の方がずっと寒いんだろうな。
塔矢にこういう冗談が通じるかどうか分かんないけど。


「寒いだろ?」

「まあ、少し。」

「・・・なあ。こういう時の暖まり方の定番って知ってる?」

「・・・・・・。」

「遭難した男女が、偶然見つけた山小屋の中で裸で温めあっているうちに。」

「都合良く山小屋もないし、ボク達も男女ではないな。」


なるほど。
こういう風に普通に返すタイプなんだ。
怒鳴ったりするかと思ったんだけど、ちょっと予想が外れた。
でも、声が微かに震えているのが気になる。
怒る気力も・・・ない?


「やっぱ寒いんじゃん。」


レインコートを脱がせようとしたら、ぎゅっと襟を握って拒まれた。
でもその手は、びっくりする程冷たかった。


「やろうってんじゃなくて。素肌があったかいのは本当なんだぜ。」


冷夏のプールの授業の時に、裸で押しくら饅頭をした時の事を思い出しながら
オレも上着とTシャツを脱いだ。
一旦塔矢を立たせて、Tシャツを腰の下辺りに敷く。
それからまたレインコートに手を掛ける。


「何をするんだ。」

「だから。お互いの体温で暖まろうぜ。」

「ボクはこのままでいい。」

「オレがよくないの。オレも暖まりたいの。」

「さ、触らないでくれ!」


塔矢が声を荒げたのは、この山に入って初めてだと思う。
ぼんやりと大体の場所が分かるだけで表情までは見えないけど、
碁会所で侃々諤々してる時の調子が戻ってきたみたいで、嬉しい。


「なんで?オレの事嫌いなワケ?」

「嫌いとかそういう・・・いや、嫌いだな。人の嫌がる事をする人間は。」

「おまえに嫌われてもぜーんぜん構わないんだけど。」

「・・・・・・。」

「無駄に体力消耗してんじゃねーってんだよ。エネルギーは大切に。」


普段ならいくら塔矢にでも嫌いとか言われたらちっとは堪えると思うんだけど、
今はもう、そんなことを言っていられない。
強がってないと、闇に、冷気に、飲み込まれて沈んでしまいそうな気がする。
だから黙り込んだ塔矢の、腕を強く掴んだ。


「とにかくボクはいい。」

「じゃあ、これ返せよ。」


闇の中、オレを睨んでいたんだろう、白い顔にぽっかり開いた黒い二つの穴を
こちらに向けていた塔矢が乱暴にレインコートを脱いだ。

その体が冷えない内に自分の上着を掛け、その上からレインコートを掛ける。
そんで固まってる隣に自分も体を滑り込ませると、塔矢が「え。」と体を捩った。


「うわ。おまえ、ホントに冷えてるな〜。我慢してんなよ。」


服の下で肩を抱くと、冷たかった。
でも上着にレインコートが増えた分、温かい。
塔矢も温もりには逆らえないらしく大人しくなって来て。
しばらくしたら、ほかほかして来た。


「・・・な?こうすれば無駄なくあったかいだろ?」


二人で羽織っているので、だらりと垂れたシャツとコートの袖を掴む。
塔矢も習ったらしく、ぴったりとくるまって肌につく。
本当に、思ったよりも温かかった。
さっきまでからは信じられない程に。

今まで、オレにとっての塔矢ってのは常に碁盤の向こう側にいる好敵手で、
こんな風に素肌で肩を寄せ合って隣に並ぶ事があるなんて想像もつかなかった。
コイツにも、体温あるんだ・・・。
やっぱりオレと同じ人間だったんだ。

とか改めて思って、当たり前じゃん、なんて自分で心の中でつっこんで。


「これでちょっとは寝られるかな・・・。」

「・・・・・。」

「横になろう。な。」


今度は布団みたいに服を掛けて。
地面はちょっと冷たかったけど、塔矢が温かかったから平気だった。

男同士で気持ち悪いとかそんな事よりも温もりが嬉しくて。
オレは塔矢の体温を抱きしめるようにした。


友だちを作るのは割と得意だったし、好きだったけど、中学を卒業してから
新しく友だちが増えるなんてことってあまりなかった。
増える「知り合い」はみんな碁打ち仲間で、碁の話ばっかりで。

塔矢も、今までは(因縁は濃いけど)そんな「知り合い」の一人だった。

でも、今日は「棋士・塔矢アキラ」でない「塔矢アキラ」と初めて知り合ったような気がした。
これからは、もしかしたら「友だち」と言える仲になれるかも知れない。

これって一つの収穫かな。
だとしたら遭難も悪くなかったかな。

なんて思いながら、目を閉じた。







−了−





※一応これ単品でも読めるようにしようと思ったんですが。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送