092:マヨヒガ
092:マヨヒガ









 由々しき事態である。
 高永夏と塔矢アキラが誘拐された。



 アキラが年間億を稼いでいた塔矢行洋の息子であるのと共に、
永夏にも彼に少なからず先行投資しているスポンサーがあり、
どちらが本命であったのかは未だに分からない。

 日本で開催された棋杯に参加した中国と韓国の選手団を、
日本の選手団が空港まで見送るという誠に儀礼的で和やかな
セレモニー直前の事であった。

 後少しで今回の国際親善が盛況の内に幕を下ろし、
関係者はホッと胸を撫で下ろすはずであったのに、
こともあろうに韓国と日本の大将が乗り合わせた車が、行方不明になったのである。





 永夏とアキラは途方に暮れていた。


 猿轡と目隠をされて散々引き回された挙げ句、どこかに押し込められて
敵の気配が消えたのでようやく目と口を解放してみると、そこは非常に狭い一部屋で、
目の前には昨日まで対戦していた外国人がいた、という訳である。

 ともかく部屋を調べてみると、据え付けのベッド一つ、ソファがひとつ、冷蔵庫、キャビネット。
それにままごとのような、でも一応キッチン、大量の保存食、非常に狭いユニットバス、
幸いなのかどうなのか、しばらくは暮らしてしまえそうな設備が一応整っているのである。

 二人とも逃げることは、最初から諦めていた。

 何故なら、鉄板の入り口は厳重に施錠され、天井は妙に低く、たった一つの小さな円い窓の外には
真っ青な水平線が非常にゆったりと、上下していたからである。





 最初の晩、アキラは永夏にベッドを譲ろうと思った。
 勿論これから毎日永夏に占領させるつもりはなかったが、交代交代なら、
まずは最初は相手に寝かせようと思ったのである。
 しかし永夏は首を振って、アキラをベッドに寝かせた。


 「すみません。明日は譲りますから。」


 通じないと分かっていても丁寧に礼を言って頭を下げる。
謎めいていた外国人が自分と同じほどの儀礼を心得ていたことに喜びを覚えた
アキラであったが、硬いスプリングが軋み、永夏まで潜り込んできたときには
一転して怒りと恐怖を覚えた。


 人間にもテリトリーがある。
 見知らぬ人間と過ごすには狭すぎる部屋である。
 只でさえストレスが溜まるのに、こんな、男にぴったりと着かれて眠らねばならぬとは。
 しかしアキラは拒否する言葉を持たなかった。





 緊張して寝たせいか、翌朝は節々の痛みに目を覚ました。
そして目の前に他人の顔があったことに飛び上がるほど驚いた。
 自分が置かれている状況が夢でなかったと再認識して大きく溜息をついたのは永夏も同じである。


 その日は誘拐された者同志として、にわか同居人として、最低限のコミュニケーションを
取るべく努力をしてみたが、生憎二人とも絵も英語も不得手で唯一の共通文字漢字も
存外役に立たないことが分かってしまったばかりであった。
 しかし考えてみれば、ここまで動きが取れない以上、暇つぶしの雑談や
今後の対策を練る複雑な表現が出来なければ少しくらい会話が出来ても何ともならないのである。


 自然、二人は無言になっていく。
 特に険悪なムードという訳ではなかったが、お互い目を合わせないようにしてはいた。
しかしいくら相手を気にしないでおこうとしても、どんなに離れても3mと距離を置けない空間である。
 常に相手の気配を感じ、視線に晒されていることを意識し続けるのは、
若い二人にとって相当の苦行であった。


 それでもその日も二人は抱き合うようにして眠った。





 そうだ。僕らには碁があった。


 翌日、アキラはキャビネットの中で見つけた便箋を使って、小さな碁盤を作った。
意図を察した永夏も、紙をちぎって碁石を作り始める。
 ニギるには小さくて薄っぺら過ぎる碁石。とりあえず先番は、棋杯で負けた方とした。


 絶え間なく揺れ続ける床。
 国で心配して居るであろう両親、関係者。
 ここは一体何処なのか。太平洋の真ん中か。
 普通に使ってしまっているが水は大丈夫なのか。
 食料は。
 この船には他に誰が乗っているのか、


 これから自分たちはどうなってしまうのか。


 「ありません。」


 アキラが頭を下げたときには永夏は肘を突いて窓の外を見つめていて、
2、3秒後に相手が頭を下げているのに気付いて慌てて自分も礼をした。


 「もう、いいね。」


 言葉は分からなくても意味は通じている。
 永夏が薄く微笑んで頷いたのを確認して、ゴミにしか見えない碁盤を一応片付ける。
楽しい碁ではなかった。
 お互いに集中できず、漫然と、なし崩し的に終わってしまった碁である。
出来るだけ早く忘れてしまいたい棋譜であった。





 三日目程から、永夏がイライラしはじめた。
 意味もなくベッドを殴り、壁を蹴る。韓国語で喚く。
 アキラはただただ座して嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 しかしただ座っているのも、とバスルームに避難し、シャワーを浴びて
ついでに着たきりだった服を洗濯し、絞る。
 何故か何枚も用意されていた換えシーツを体に巻き付けて部屋に戻る。

 まだ嵐の最中だった永夏は一瞬固まった後、大爆笑した。
 失礼な、と思うが、この位で彼の機嫌が直るならいいか、とも思い、濡れた衣類を広げて見せた。

 それを見た永夏もシャワーを浴び、シーツを羽織って出てきた。
 一気に部屋中が洗濯物だらけになる。
 何も一緒に洗濯しなくてもいいじゃないか。アキラは口の中でつぶやいた。





 その後から永夏がバスルームに籠もることが多くなった。
 理由は想像が付くし、実際その後入ったら青い匂いがしていた。仕方ない、とアキラは思う。
 ストレスは溜まり、体力は有り余り、そして暇すぎるのである。
 実際アキラもシャワーを浴びている時にもよおし、自分の息子に手を掛けたことがある。
でも、永夏ほどではない、と思った。
 サルじゃないんだから。


 ある時、永夏はベッドに横たわっていた体を起こし、じっと自分の股間を見つめた後、
そのまま前をくつろげはじめた。


 「おいっ!こんな所でするなよ!バスルームに行けよ。」


 通じないのに丁寧な言葉を使っていても仕方がない。しかも今回は内容も内容である。
 厳しい表情を浮かべたアキラを、これまたきつい顔でじっと見返した永夏は、
屹立した物もそのままに、おもむろに立ち上がってアキラの方に寄る。
 思わずアキラもソファから立ち上がり後ずさったが、すぐに壁に当たってしまった。
 追いつめたアキラの手を掴んで、自分の股間へ。


 「いやだ!やめろよ。絶対いやだ!」


 毛を逆立てて拒否するアキラの足の間に、今度は永夏の手が伸びる。
思わず、突き飛ばしていた。

 ベッドに投げ出される永夏。
 今のはまずかった・・・。思ってももう遅い。

 怒りに目を細めて起きあがった永夏はアキラの腕を掴み、ベッドに引き倒す。
 年は近くても体格が違う。全力で抗ってもどうしようもない。
 引き裂かんばかりに乱暴にシャツをめくり上げるのに恐怖を覚え、


 「待て、話せばわかるから。」


 話しても分かるはずがない。
 交渉を求めて伸ばされた手は、あえなく凪ぎ払われた。

 アキラは永夏を怒らせてしまったのである。
 どうしようもない程に。





 永夏は上半身剥いたアキラの頭を押さえつけ、しばらく逡巡してたがやがて
覚悟を決めたように唇を重ねた。

 覚悟を決めねばならぬのはアキラの方である。

 迷う永夏を見てその心中が手に取るように分かった。
 仕方なく同じく自らを騙すべく、目の前にいるのは年上の美しい女性だ、
などと必死に言い聞かせ、顔だけ見ていれば充分そのように思える、と
思う所が既に素に返ってしまっている、などと悲しんだりしている間にタイムアップ、
永夏の顔が下りてきた。

 正直人生二度目の口づけで、一度目は幼稚園以前に近所の子と
うっかりしてしまった、というありがちなファーストキスである。
 あんなのはキスじゃない、ならこれがそうなのかと言えば、そうも思いたくない。


 永夏に深く舌をからめ取られながら、一体僕はいつになったらファーストキスが
出来るのかなどとぼんやりと考えていた。


 永夏はアキラの首に唇をつけたまま自分を扱き、アキラの腹の上に出した。





 怒りは数十分後にやってきた。


 アキラが他人にこれほど殺意を覚えたのは初めてである。
 基本的に囲碁以外のことで感情が高ぶったこともないし、囲碁関係のことなら
囲碁で返してやろうという意気込みがここまでアキラを強くした推進力であった。

 しかし今回のことは。勿論碁の腕を磨いて永夏を叩きのめしたいとも思うが
そのくらいでは収まらない。
 このままでは。あまりの事にフリーズしてしまって好きにされた自分自身も許せない。
オトシマエをつけなければ。


 後で思えば、アキラも既に正気を失っていた。


 その夜、アキラの肌を汚して満足したのか、すうすうと寝息を立てる永夏の首に、
タオルを巻き付けた。
 本当に殺すのか?分からない。ただこのまま手を拱いていれば、
明日も永夏は自分を汚すだろう。それは許せない。
 かといって体力的に永夏には絶対勝てない。包丁や鋏といった武器もない。


 これは正当防衛だ。
 アキラの目が光った。


 目を覚ましてバタバタと死にものぐるいで暴れる永夏。締め上げるアキラの腕を掴み、
腹に渾身の膝蹴りをくれる。
 息が止まる衝撃にアキラは思わず手を離して身を折り、床に膝を突いた。その顔に永夏の
容赦ない平手打ちが飛ぶ。体が横倒しになり、燃えるように熱い片耳はしばらく聴力を失った。


 その夜から、アキラは両手を縛られて過ごさねばならない事になった。





 食事や生活時間には縛めを外されたが、アキラは髭をあたらないことに決めた。
 こんな時だからこそ身だしなみを常に整えて置かなければ、いつ救出がくるか分からないし、
などとこれまでは思っていたし実行していたが。

 永夏に対するささやかな抵抗である。

 しかしいかんせん元々髭は薄い質で伸びるのも遅く、全く気づいて貰えなかった。
 既に永夏は容易くアキラを全裸にし、髪や顔や白くてほっそりした二の腕を愛でたり、
アキラの足に自分の持ち物を擦りつけて楽しんでいる。

 僕は何なのだ。

 この異常な状況は、SF小説か何かのようで、到底現実とは思えない。
 今でもどこか夢のようで、目が覚めたらまだ空港に向かう車の中なのではないか、
そしてそっと隣の永夏を見遣り、彼相手の恥ずかしい夢を見てしまったことに
ひっそりと赤面するのではないか・・・。

 そうであったらどれほどいいだろう。いや、そうに違いない。
 だってそうでなければ、どうして僕は、僕は。

 永夏はアキラの情況に気づくと羞恥に伏せられた顔をわざわざ覗き込んでニヤリと笑い、
アキラを扱き始めた。





 気が狂うほどの屈辱感がアキラを苛む。

 縛られたままあらゆる所を触られ、触られれば容易く反応してしまう。永夏の物を擦りつけられると、
死ぬほど気持ちが悪いのに・・・アキラ自身は高ぶっていた。
 切り取ってしまいたい。
 何度も本気で思った。
 ただ野蛮な人種のすることなら、犬に噛まれたような物と思って目をつぶってやり過ごすのも可能である。


 何より許せないのは、永夏の棋力が、アキラと拮抗する事だった。





 今日も永夏は後ろから抱き込み、揃えたアキラの太股の間に自身を挿入して楽しんでいる。
 いつも相手をさせられている時と同じく険しい顔で宙を睨んでいたアキラだったが
永夏のカクカクとした腰の動きに、突然切れた。

 殴られても良い。場合によっては殺されても。

 口を塞ぐように回されていた腕に思い切り噛みつく。
 ところが永夏は殴るどころか腰の動きを早め、アキラの耳にまで舌を挿入した。
 アキラは噛みしめ続ける。
 永夏は射精し、アキラの太股を生ぬるく濡らした。
 そして、同じく生ぬるくて塩辛い液体が舌の上に流れるのを味わったとき、
アキラ自身もビクビクと弾けていた。


 アキラの中で何かが溶け崩れ始めた。



 その夜、永夏はアキラの縛めを解いた。









 もはや二人は殆ど全裸で暮らしていた。
 狭い部屋は不快なほどではないがやや暖かすぎることもあり、
時にうっすらと首筋に滲む汗が爛れた夏のように二人を狂わせる。
 主に先にもよおすのは永夏であったが、その都度いちいち服を脱がせるのは
面倒だという事もあるのだろう。

 そしてアキラはやはり髭を剃っておくことにした。


 初めはアキラに口づけることにさえ抵抗があった永夏であったが、今や完全に欲望に屈し
全身を舐め回し、時にアキラ自身を口に含みさえした。


 永夏はアキラの精液を飲んだが、アキラはどうしても永夏の物を口にすることが出来ない。
代わりに、といっては何だが、よく永夏はアキラの顔に、かけた。
 別にアキラの方からくわえてくれ、と頼んでいる訳ではないので申し訳ながる
必要もないのだが何となく悪い、と思ってしまい、今日も甘んじて生臭い液を受ける。





 アキラには東京で碁を打っていたことも、進藤のことも、棋杯も、全てが遠く感じられた。
 繰り返される日常の隙間にひび割れのように存在していた陥穽。
 このマヨイガのように非現実的な狭い空間だけが実は現実にして全宇宙で、
この美貌の悪魔と二人きり、永遠を過ごして行くような気がするのである。


 永夏。終わらない夏。


 ここは、法律も道徳さえも存在しない楽園。


 ・・・そういえばアダムとイブは、本当に愛し合っていたのだろうか。
 他に相手が居なければ、目の前にいる人間に目を向けるしかないじゃないか・・・・。



 それを最後にアキラは考えることをふつりと止めた。












 しかしその日は突然やってきた。
 何故だか外が騒がしい。
 慌てて服を身につけてドアに耳をつけると、ドンドンドン、と叩く音に続いて


 「誰かいるのか!」

 「います!高永夏と、塔矢アキラがいます!」





 永夏とアキラは救出された。
 思った通りの大型船舶で、意外にも川崎に停泊していた。
 この部屋は海外マフィアと繋がりのある人物に借り切られた「特別室」で、
何となんのチェックも受けずに永夏とアキラは川崎と中国を何往復もしていたのである。


 そのまま二人は病院に運ばれたが、特に衰弱している訳でもなく、一日様子を見るが
健康に問題はないと言われ、すぐに事情聴取に移った。


 心配していたようにあの部屋での出来事を根ほり葉ほり聞かれることもなく、
主に車に乗ったところからあの部屋に着くまでの話を何回もさせられたが、
アキラはあまり捜査に協力できなかったようである。
 永夏もそれは同じであった。





 翌日、アキラは永夏と対面したが、ずっと密着していた相手だったので、
一晩離れていただけで随分久しぶりのような気がした。


 「○○○○○○○。」

 「お疲れさま、言ってます。」

 「あ、はい。そちらこそ。」

 「○○○○、○○○○○○○○○○○○。」

 「このこと、言いたくない、でも忘れない、そうです。分かりますか?」

 「・・・・・・はい。
 そうだな・・・。僕も同じ気持ちだと伝えて頂けますか?
 それと、これに懲りずにまた日本に来て欲しいと、またいい対局をしようと。」


 永夏が握り拳を突き出すので何だろうと手で受けると。


 ひら。

 ひらひら。


 「持って来てたのか!」


 アキラがすっかり忘れていた、ちぎった紙で出来たゴミのような碁石。
 永夏の作った碁石。


 永夏は同じく不揃いな格子が書かれた便箋を見せ、大切に胸のポケットに仕舞う。
 アキラの作った碁盤。


 アキラも、両手で受けた碁石を、大切に胸に捧げ持った。





 今後、永夏とアキラがかの体験を余人に話す事はないであろうし国際棋戦で会ったとしても
通訳を介して挨拶を交わす以上の出来事があるかどうかは分からない。


 でも、少なくとも


 小さな額に納められた汚い便箋を見る度に
 ガラス瓶に保存された紙屑を見る度に


 なんとも言えない気分になるのは確かである。





−了−







※昔書いたもの。
  どの位昔かというと、私がまだアキラさんの中国語と韓国語は「使い物にならない」
  という言葉を素直に信じていた頃です。
  
  で、「大将は塔矢」と決まったより後ですね。
  大将戦の結果が分からないからぼかしておこう、と思ったのを覚えています。
  まさか対戦しないとはね。
  そしてまさか終わるとはね。
  
  当時はヨンアキに萌えていたらしい。
  そして三人称地の文に挑戦しようとかいう意欲があったらしい。










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