089:マニキュア
089:マニキュア









早めに家に帰って、ガラガラと玄関を開ける。
この引き戸は、まだ慣れない。


「ただいまぁ・・・っと。」


あれ?誰もいないのかな?んなことねーよな。玄関開いてたし。


台所に行っても誰もいないので、奥に進む。
父さんたちの寝間に使っている和室に行ってみる。


「明子さん・・・?」

「あら!驚いた、お帰りなさいヒカルさん。」

「ただいま。」

「ごめんなさいね。気が付かなくて。」

「ううん。何してたんですか?」


聞くまでもない。鏡台に座って、マニキュアを塗っていた。
わー・・・女優さんみたい。なんとなく。


「あの・・・見てていい?」

「ええいいわよ。珍しい?」


頷きながら中に入って、鏡台の脇にぺたりと腰を下ろす。


「うん、母さんはマニキュアなんか・・・」


塗らなかったから、と言いかけてちょっとまずかったかな?と思う。


「・・・すみません。」

「いいのよ、気なんか使わなくても。私も美津子さんの事を聞きたいわ。」

「そんなもんなの?」

「ええ、彼女はマニキュアを塗らなかったの?」

「うん。お洒落ってもんを全然しない訳じゃなかったけど、通り一遍だったな。最低限というか。」

「慎ましいというのではないかしら。」

「ダサかったよ。あまり自分には金かけてなかった。」

「その分ヒカルさんに使っていたのね、良いお母さんだわ。」

「いい・・・母さんだったかな。今思うと。」


回想に浸りながら何だかんだと話している間にも、目の前でどんどん爪は染められていく。
ベージュとピンクの間のような・・・落ち着いた大人っぽい色。


「上手いね。」

「コツがあるのよ。塗りにくい所から塗って行くの。」

「マニキュアを塗るのが上手いお母さんも・・・」


何も考えずに言いかけて、途中で凄く恥ずかしい内容のような気がして言葉が止まる。
でも、首を傾げて待たれて、仕方なく続けた。


「・・・いいお母さんだと思います。」

「ほほほ。ありがとう。」


明子さんは笑い方も何となく上品だ。
けれど、一通り塗り終わって十本の指を顔の前で満足げに広げるのが
何だか女の子みたいな仕草だと思った。


「難しいんでしょ?」

「そうね。・・・やってみる?」


意味もなく訊いただけだけれど、思いがけず明子さんが悪戯っぽく笑って、
自分が使っていたマニキュアの瓶を渡してくれた。
戸惑いながらも受け取って、蓋をあけるとツン、とシンナーっぽい匂いがした。

塗りにくい所・・・右手の小指からかな。

刷毛つきの蓋を持って、小指に持っていこうとすると手の甲にぼとっと垂れた。


「ああ、いけないわ。」


明子さんがオレの横にすっと膝を付き、右手を柔らかく挟む。
蓋を渡すと、自分の爪がオレに触れないように器用に指を摘んでから正座をした。
そして流れるような仕草で小指の爪の上に刷毛を滑らせ始める。

オレはなすがままだった。

柔らかい手。
空気を伝わってくる体温。
なんだろう、良い匂い。
シャンプー・・・は同じの使ってるもんな。
化粧品?

ぼうっとしている間に右手の五本を塗り終わり、


「はい出来た。」


マニキュアの蓋をする。
体温が離れて、少し残念な気がした。


「ありがとう・・・。」

「如何?」

「きれい。自分の指じゃないみたい。」


気が付けばオレも顔の前に手をかざして指を広げていた。
女の子みたいな仕草に見えているだろうか、と思った。




ピー・・・ンポー・・ン




「ああ、アキラさんが帰って来たわ。その指、しばらくどこにも触らないでね。」


ぱたぱたと早足で廊下を行く明子さんに続いて、
オレも右手を不自然に広げたまま玄関に向かった。


「お帰りなさい。」

「ただいま帰りました・・・。」

「よ!おかえり!」


並んで出迎えた明子さんとオレを見て、靴を揃えて僅かにネクタイを弛めた塔矢が
眉を上げる。


「随分早かったんだね?」

「うん。」

「丁度いいな。これから少し今日の対局の検討に付き合ってくれる?」

「いいよ。」


明子さんはこれから後援会(塔矢行洋の後援会がそのまま塔矢アキラの後援会にシフトしている)の
打ち合わせだし、父さんは遅くなるはずだし、好きな時間に夕飯が食べられる。







明子さんが出掛けた後、塔矢の部屋に行った。
塔矢は既に碁盤を出していた。


「並べるぞ。ボクが黒だ。」

「うん。」


ぱちぱちと素早く石が配置されていく。


「で、問題はここだ。」

「そりゃ・・・普通こう、だよな。」


碁簀から石を取って、何気なくぱちりと置く。
置きながら、あ、マニキュア、と思ったが、今更どうしようもないし、
よく考えれば別に困ることもない。

でもやっぱり塔矢にじっと指先を見つめられて、決まりが悪かった。


「・・・あの、これ、明子さんに塗って貰ったんだ。」

「母に?何故。」

「マニキュア塗ってる所見せて貰ってたら、オレにも塗ってくれた。」

「・・・・・・。」

「いや、別にオレが塗ってくれって頼んだ訳じゃないんだけど、」


早口で言いながら、体温が感じられるほど、息がかかるほど、親密だった距離を思い出して
今更顔が熱くなる。


「キミの前でマニキュアを?というかそれは何処だ?」

「どこってそりゃ、寝間の鏡台の前。」

「な、キミは両親の寝間に行ったのか?」

「うん、って、え、何?」

「非常識な男だな。」

「何で。」

「寝間なんて親のプライベートな空間だろう。普通遠慮するさ。」

「そんなもんかな。」

「ボクだってここ何年も行っていない。第一用事もないし。キミは何かあったのか?」

「用事ってか、帰ってきても明子さん出てこなかったから、どこにいるのかな〜って探しに行った。」

「母が出てこなかった?呼び鈴は鳴らしたのか?」

「いや?自分ちだし。」


塔矢は盛大に溜息を吐いた。


「・・・あのな、この家はキミが前住んでた家と違って・・・古いんだ。
 奥にいたら玄関の気配なんか分からない。」


古い事なんてかんけーねえだろ!この家はでかいって言えばいいじゃん!


「母も母だ。不用心な。」

「そんな風に言うなよ。」

「キミも今後は遠慮しろよ。母親とは言え女性なんだし。」


考えてなかった・・・・・・。


「多分着替えと同じように、マニキュア塗ったり化粧をしている所は見られたくないものだろう。」

「そんなことないんじゃない?見てていいかって聞いたらいいって、」

「母は無下に断るような人じゃない。婉曲に断られたのにキミが気付かなかったんじゃないか?」


どうだろう。
会話を思い出してみるけれど、そんな風には全然思わなかった。


「おまえが思ってるより、明子さんは度量が広い人だよ。」


塔矢は本気でムッとした顔をした。


「キミに何が分かる。それにいつまでその他人行儀な呼び方でいるつもりだ。」

「『明子さん』?何が悪いの?」

「継子のキミにそんな呼び方されたら、母親と認められてないみたいじゃないか。
 きっと母は傷ついている。」


そういえば塔矢はオレの父さんの事もきちんと「お父さん」と呼ぶ。
オレの事は、前みたいに名字で呼ぶわけには行かないと思っているらしく、9割方「キミ」と呼びかけられる。

しかもあろうことか、明子さんの前ではオレの事「兄さん」とか呼んだりするんだ。
そこまで気ぃ使う必要あるか?


「んなことないと思うよ。」

「だから!キミには分からないと言っているんだ。ボクの事だって、」


無理するのも気色悪いっていうか、オレは塔矢は塔矢でいいと思うんで、そう呼んでる。


「アキラと呼んだ方が良い。家族なんだから。」

「アキラ・・・?」


真顔で頷く塔矢に、オレは思わず噴き出してしまった。
塔矢は塔矢じゃん!


「何が可笑しい。」

「だって、だって・・・おまえオレの事『兄さん』って呼びたい?」

「呼びたくもないが仕方ないじゃないか。その内慣れるさ。」

「仕方ないって何が。それに、おまえ明子さんの前とオレの前ではしゃべり方が全然違うよなあ。」

「それは、」


塔矢は自分で気付いてなかったのか、戸惑ったような顔をした。


「・・・多分キミに合わせてるんだ。無意識に。」

「そう?オレはこっちの方が地みたいな気がするけど。」


塔矢はいよいよ眉を逆立てて立ち上がった。


「キミと話していると不愉快だ!検討は明日にしよう。」

「あ、ちょっと待てよ、さっきんトコだけ教えてくれよ。」

「いやだね。もう寝るから出て行ってくれ!」


布団を仕舞ってある襖に向かった塔矢を慌てて立ち上がって追う。


「待てって!晩メシもまだじゃん!」

「うるさい!」


あれ・・・?
今?

襖の柱に手を突いて、塔矢を閉じこめた体勢のままふと止まる。


「どけよ。」

「待って。」


髪かな?
マニキュアのついた指で、塔矢の髪を掬って顔を近づける。


「何するんだ気持ち悪い。」

「いや、この匂い・・・、」


塔矢の肩や首や髪に鼻をつけてくんくん嗅ぐと、間違いない。


「匂い?失礼な。」

「いや・・・明子さんと同じいい匂いがする。」


そうなんだ。香水の類じゃない、でも何かいい匂い。
よっぽど近づかないと分からない微かな、体臭?にしては・・・。


「やっぱ親子だな〜、肌の匂いが似てるなんて。」


からかい半分に言って、塔矢照れた顔をしてるかな?と思って見上げたら





「・・・キミ、こんなに母に近づいたのか?」




オレは情けなく「ひっ!」と叫んで尻餅をついてしまった。








−了−








※兄弟プレイまで行かせようと思ったのですが無理でした。
  アキラさん、自分の中でマザコン気味決定。
  アキラさんのせいではありません。このサイトでは明子さんが最強なので。


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