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075:ひとでなしの恋 |
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はじめ、進藤は僕にとってこの上ないほどの同居人でありました。 進藤に誘われてこの古いマンションを見たときはどうしようかと思い悩みましたが この部屋で進藤と一局打った時に、心は決まりました。 静かで、 研ぎ澄まされる。 棋院や自宅に優るとも劣らぬほど、碁を打つのにふさわしい、雰囲気と申しますか 空気で満たされているような心持ちがするのです。 色褪せた畳の上。 高めの窓から差し込む薄ぼんやりとした夕刻の光が なんとはなしに不安なような、懐かしいような、 不思議な色をたたえていたのをよく覚えております。 碁盤の底に、みずうみが見えるようでした。 僕が移ってからは、日毎、夜毎、僕たちは碁盤を囲み、交代で食事の用意をし、 眠くなれば眠り、仕事の時間になれば支度をする。 二人だけの非常に気儘な碁漬けの生活は楽しくてなりませんでした。 時には進藤の碁打ち仲間がたづねて来て、僕のことを物珍しそうに 眺めている事もありましたが、それは最初だけで、 誰しもすぐに碁に没頭してしまいました。 碁打ちの性とは、げに恐ろしき物と思ったものです。 しかし一度などは僕の様子を見に来ただけであったはずの母が、進藤に指導碁を 打って貰うなどという小さな事件もありました。 やはりこの部屋には、人を碁に集中させる、人外の力が働いているような気がする、 いやそう考えたかっただけなのかも知れません。 とにかく、 そんなささやかで、いささかままごとじみた幸せな日々が続いていたのです。 僕があのことに気づくまでは。 部屋とは申せ、古いながらも一家族住まえるほどのマンションですので、 よくあるワンルームなどとは違って多少部屋数があります。 当然進藤と僕は別々の部屋を持っていましたが、 ある事情により、進藤は殆ど僕の部屋で、あるいは僕の布団に寝ていました。 その夜は珍しく夜中に目が覚め、すぅ、と胸元に差し込む空気の冷たさに 思わず布団をかき寄せたのですが、ふと気づくと 先刻までそこにあったはずの進藤の体がありません。 月明かりに照らされて、おざなりに敷いた隣の布団も空のようです。 小用か。 それが恐ろしい未来の兆候とも思わず、その日はその程度の感想でした。 どうも、薄ぼんやりと。 碁を打つ時以外の進藤が、心此処に非ずと言った様子を見せ始めたのは いつ頃からでしたでしょうか。 碁を打っていない時、というのは、それ以外の日常生活全般という事なのですが それはすなわち・・・「碁打ち」でない時の僕、塔矢アキラと対峙している時間、 でもある訳です。 男同士で奇妙なこと、と思われるかも知れません。 これが、お恥ずかしながら先程申しました「事情」なのですが、 進藤は僕を愛している・・・いえ、少なくとも、愛していた、と思うのです。 ああ、そんな困った顔をなさらないで下さい。 この事はこのお話の重要な部分ではないのですから、 後生ですからどうか、少しだけ我慢して聞いてやって下さい。 とにかく。 彼は最初に僕の体を奪い、心を奪い、そしてついに自分のテリトリイに 引き込むという形で、私生活まで奪った。 その強引な手口を、僕は深い愛だと捉えていました。 でもそれは、表面だけの偽りだったというのでしょうか。 いつからか僕の上を通り過ぎるようになった、進藤の視線。 彼の心は僕から離れていったというのでしょうか。 それとも、初めから僕のことなど。 だとしたら、何故。 彼は、食事をしている時もあらぬ方を眺めやる事が多くなりました。 その上、少しづつ顔色が悪くなってゆき、やつれたようにも見えます。 もしかしたら、恋の病。 別に好きな人でも、出来たのか。 考えれば考えるほど、そのように思えてなりません。 他に理由が思い当たらないのです。 それは、僕のような、少年でしょうか。 それとも、進藤のような少年の憧れを惹きつけるに十分な逞しい男性でしょうか。 それとも・・・美しい、お嬢さんなのでしょうか。 でも・・・いつ。 考えてみましたが、特に行き先を告げずに出掛けることもなければ、 不自然に帰りが遅くなることもない。 進藤の動向に不審な点はないどころか ほとんどの行動範囲を把握していると、僕は自負できてしまうのです。 誰かさんと逢い引きする時間が取れるとは考えられない・・・。 わけが分かりませんでした。 そんな時、関係あるのかないのか、あの夜中の不在が、気づいただけでも 一度や二度でない事に思い至ったのです。 さすがに不審に思ってしばらく待ってみた時も、起きている間に帰ってこなくて 結局寝てしまったのでした。 一度などは、声も掛けてみました。 「ん・・・トイレか・・・?」 「あ、起こしたか。ゴメン。そうだよ。」 しばらくすれば、遠くの流水音の後に、カラリと戸が開き、廊下の明かりが一条 部屋に差し込みます。 「塔矢・・・。」 「・・・何?」 「起きてた?」 と言って、少し冷たい体を布団に滑り込ませてきて、僕を力一杯抱きしめます。 でも・・・・。 僕の心はしん、と冷えたままでした。 もし、僕が返事をしなくても、君はこうやって布団に戻ってきてくれただろうか。 ある夜。 いつも通り夜中に抜け出して戻ってこない進藤にしびれを切らして、 ついに僕は思いきった行動に出ました。 カーディガンを羽織り、そっと廊下に出てみます。 案の定トイレの電気は消えていました。 台所にも、いない。 リビングにも。 最後に進藤の部屋の前まで来れば、やはり、中に人の気配がありました。 戸口にそっと耳を寄せると。 ぱちり。 ・・・ぱちり。 石を並べて・・・? 「・・・から、・・辺が、弱って・・・・」 電話?独り言? 「んだよー。これだって悪くないじゃん!」 「・・・・ません。何故なら・・・・」 心の臓が口から飛び出るかと思いました。 明確に聞き取れる進藤の声と・・・ もう一人。 男とも女ともつかぬ声音で、低すぎてよくは聞き取れませんでしたが 静かな物言いと丁寧な語尾からすると、女性かも知れません。 いつの間に・・・。 毎夜、僕が寝た後、進藤は自らの部屋に女性を引き込んでいたと 言うのでしょうか。 そんなことを僕に気づかれずに繰り返せるのでしょうか? 僕の寝る時間は不規則で、読むことなど出来ない。 それに、あの、僕の最大のライバルたる進藤に指導できるほどの腕を持った しかも女性・・・。 どうしようもなく頭が混乱して、何が何だか分かりません。 それでも厳然たる事実として、今も部屋の中からぼそぼそと聞こえる 話し声・・・。 気が、ふれそうでした。 このまま二人が睦み合う声などが聞こえ始めでもしたら、 僕は本当に狂ってしまう。 呆然としたまま、おぼつかぬ足取りで僕は自分の部屋に帰り、 冷えた布団に体を横たえました。 少し、泣きました。 次の日、進藤が先に出たので、申し訳ない申し訳ない、と思いながらも 恥しらずにも彼の部屋を調べてみました。 長い毛髪などが落ちていたら・・・・ そうしたら、どうしようと言うのでしょうか。 絶望する以外僕に何が出来るのでしょうか・・・。 激しく恐怖しながらも、それでも調べずにはいられない。 あさましい、と自分で思いました。 しかし案に反して、進藤以外の人間が居たような痕跡は、何一つ見つかりません。 ほとんど自分でも信じていませんでしたが、あれはもしや夢だったのでは、 とも思いました。 そうであったら、どれほど良かったでしょう。 半分は苛立ち、半分は胸を撫で下ろし、 僕は部屋の真ん中に立って、もう一度辺りを見回しました。 もともと進藤は荷物が少なく、多少の着替えや、雑誌類。 そして、普段は使わない、なにやら重厚で古めかしい、碁盤。 隅に置いてあったのを持ち上げて、部屋の真ん中に据えてみます。 表面を指でなぞりましたが、埃一つ付きませんでした。 やはり、進藤は昨夜、彼の人と、打っていた。 打つだけなら、何も僕に隠れてこそこそと会う必要はない。 堂々と呼んで僕に紹介してくれたり、打たせてくれたりするはずだ。 二人がただ事ではない関係なのは、火を見るよりも明らかでしょう。 ・・・呆然と格子模様を眺めていると、こんな時にも関わらず なにやら妙な気分になってきました。 碁笥から石を取り出し、ぱちり、と一つ置いてみます。 初めてこの碁盤に打たせて貰ったわけではありませんが、 やはり、いい音だ。 ぱちり。 ぱちり。 僕は、気づかぬ間に、記憶している棋譜の一つを全部並べ終えていました。 なるほど、みんながここに来たら打ちたくなるのは、この部屋の魔力ではなく この碁盤のせいなのかも知れないな、などと思いながら片付けました。 思っている間に、もうすぐ仕事の時間だ。 頭を、囲碁に使わなければ。安堵の溜息が出ます。 分かっていました。進藤の問題から、目を逸らしたいだけの、自分を。 その晩は、差し向かいで夕飯を食べていながら、進藤と僕はそれぞれ 別の方角を見、別の物思いに耽り、その事を不自然だとも寂しいとも 思えずにおりました。 ・・進藤。 彼に高みから指導できるほどの棋力を持った女性がいるのだろうか。 何人かの女流プロの顔を思い浮かべてみましたが、 誰一人としてしっくりと当てはまる人が居ません。 僕のイメージの中で、彼女はどんどんくっきりとした姿を取り始めます。 物静かで、白い顔に丈成す黒髪がよく映える。 匂い立つような色気と、恐らく日本の女性で一二を争うほどの 棋力を持っているのに無名な、顔のない美女。 顔のない・・・棋士・・・。 sai 。 頭の中で、何かがはじけた気がしました。 その夜、僕は布団に入っても寝ませんでした。 僕が寝入った頃を見計らって、進藤は彼女を引き入れる。 玄関の開く微かな金属音が聞こえたら、部屋から飛び出す所存です。 今日こそは、どうしても sai に会いたい。 でも、進藤の部屋に居るところに踏み込んで、 もし彼女が服を身につけていなかったりしたら、僕もきまりが悪い。 だから玄関が開くのを待つのです。 もはや、進藤が彼女とどういった関係でもかまいません。 会って、直接声を聞きたい。 そして、勿論、対局して欲しい。 出来れば父とも。 思えば僕も既に、姿を見ぬ人に恋をしていたのかもしれません。 普段の僕からすれば考えられないほどの激しい衝動でした。 どれほど時間が経ったか、進藤が布団から抜け出して行きます。 しかし・・・・・いつまで経っても、玄関の開く音が聞こえません。 ? 今日は、来ないのか? ただのどが渇いたか小用か、それだけの為に進藤は起きたのでしょうか。 またしても我慢できずに、僕も布団を出ます。 進藤の部屋の前に行って耳を澄ませると。 ぱちり。 ぱちり。 「・・かる・・・いつまでも・・・ては、いけません・・。」 ・・・なんということでしょう。 この時の僕の衝撃が、お分かりになるでしょうか。 だって、今日は僕は、午後からずっと家にいたのです。 誰かが入ってくれば気づかないはずがありません。 ということは彼女は午前中に忍び込んで、真夜中近くの今まで 飲まず喰わずでずっと潜んでいたというのでしょうか? 押入? 物置? 天井裏? どこかは分かりませんが、非常に狭い場所で、進藤や僕が食事をしたり テレビを見たりして談笑しているのを、何時間も息を潜めて聞いていたと 言うのでしょうか。 怖い、人だ。 気味が悪いというのもありますし、とにかく尋常ではありません。 でも。 ・・・そう言えば・・・一度たりとも、夜中に玄関が開く微かな音を 聞いたことがあるのか?僕は。 僕の惑乱も知らぬげに会話は進行していきます。 「塔矢に、悪いでしょう?」 「ああ、分かってる。分かってるけど!」 「私のことは、もう、あきらめて下さい・・・。」 「あきらめようと、思ったよ。塔矢にも悪いと思ったし、 だからこの部屋に呼んで、塔矢だけを見ていようって、努力してたよ!」 『努力』・・・・。 なんて ことだ sai の不気味さなど地平の彼方に飛び去って行きました。 僕の立っている、地面が、 さらさらと、 くづれてゆく。 「でも、忘れられない。」 「いけません。だって私は。」 「ダメだ!」 「私は、」 「言うな!」 「もういないのですから。」 「しんどうっ!」 大声で叫びながら飛び込んだ僕を、 泣き崩れかけていた進藤が、驚愕の表情を浮かべて見つめます。 そして 進藤を泣かせた張本人は。 碁盤を挟んだ向かいには。 だあれも、いませんでした。 進藤と睦言を交わしていたのはこの碁盤自体だと言うのでしょうか。 彼が、僕に隠れて、恋していたのは。 ・・・進藤と僕は無言で朝まで抱き合っていました。 後で聞いたところに寄ると、進藤は確かに sai との思い出の棋譜を並べて いましたが、会話は勿論、独り言をいった覚えもないと言います。 でも、確かにあれは進藤の声でした。 今となって思い返せば、sai の、声も。 僕は、何も言いませんでした。 ここでこの不思議なお話は終わりです。 人でなしの恋、この世のほかの恋と申すらくも、乱歩のような怪奇談という程でもなく ゆうれい談などであろうはずもなく。ご期待はずれでしたら本当に申し訳ありません。 結局進藤は sai を慕うあまり、 今はもういない sai との棋譜をビデオテープのように擦り切れるまで再生し続けて。 碁盤の向こうにありもしない幻影を見てしまったのでしょう・・・。 いいや、違う。 幻を見せて惑わせたのは碁盤だ。 長い、長い、年月、数え切れないほどの棋譜をその身の上に並べ、 数え切れないほどの碁打ちに出会って魂を宿してしまった きっと、碁盤の方が、君に恋をしていたんだよ。 −了− ※これは乱歩の「人でなしの恋」を読んでいないと分かりにくいかも知れませんね。 ヒカ碁のパロであり乱歩のパロでもあるんで、面白いと思って頂けたところが 乱歩のアイデアだったり(笑) |
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