058:風切羽
058:風切羽









「緒方さんが誘ってくれるなんて珍しい。」


女が、梳かしている髪に隠れた顔で言う。
夜の商売らしく、殆ど日に当たったことのなさそうな青白い肩だ。


「誰かに、振られたんでしょう。」


何故だか少し笑いを含んだ声。


「そんな所だ。」

「どんな人?」

「さらさらとした、鴉の濡れ羽色の髪の・・・美少女だ。」


女は顔を上げて少し目を見開いた後、声を出さずに「う」「そ」「つ」「き」の形に唇を動かした。
確かに本当の事ではないが、まんざら嘘でもない。


「貴方が一番苦手なタイプじゃないの。」

「だから、振られた。」


本来なら昨夜は進藤を抱くはずだったが、アイツは来なかった。
負け惜しみという訳でもないが、今思うと本当に抱きたかったのかどうか、
自分でも訝しい。


・・・・・・・・・・・・





「熱海に宿を取った。次の週末は休みだろう?」


先日進藤を家に送る車の中で言ったら、


「温泉?行く行く!」


即答して隣ではしゃいだ声を上げた。
揺れる髪が鸚哥(インコ)のようだと、いつも思う。

オレは行くか行かないかなんて聞いていない。
自分には選択肢などない事に、まだ気付いていない、飼い鳥。

だが、しばらくして大人しくなった。
一泊旅行の意味に気付くのも遅すぎる。
いや気付いただけマシか・・・。

人気のない住宅街の路肩に車を停め、エンジンを切るかどうしようか一瞬迷ってから、やはり切る。
闇の中、街灯に照らされた顔の輪郭。
不安げに見つめる首を引き寄せて、唇を合わせた。

舌を入れると甘えた動きでおずおずと応えるので、強く吸ってやると
「んっ」と籠もった声を出す。
自分の領内に引き入れた柔らかい舌を緩く噛みながら、耳や首筋に指を這わせると
唇の端からだらしなく唾液を垂らした。


「あ、でも・・・。」


何か言っているのを無視して舌の先で頬をちろりと舐めてから、首筋に唇をつける。
羊の皮のように柔らかく、少し塩の味がする。


「塔矢と・・・。」


聞き捨てならない言葉に、少し顔を離して次の言葉を待った。
進藤は荒くなった息を整えてから


「土曜日塔矢と、打つ約束してたんだった。碁会所で。」

「なら、やめるか。」


ふるふると首を振り、袖で口の端を拭って胸に縋り付いて来る。


「行く。」

「そうか。」


進藤の土曜日の予定を、実は知っていた。
アキラがそのような事を言っていた。
だから、その日にしたのだ。
そして進藤が塔矢アキラより自分を選んだ事に、冥い快感を覚える。


またねだるように唇を寄せてきた少年は、下半身も移動して来たそうだったが
ギアとサイドブレーキが邪魔をしていた。
今頃、ジーンズが痛い程だろう。
触って欲しいのだろうが、触ってやらない。

このブレーキを乗り越えて今ここで、位の事は思っているかも知れないが
こっちはもうそんな若造じゃない。
土曜日を楽しみにしながら、今日は家に帰って自分で自分を慰めるがいい・・・。



・・・・・・・・・・・・



そんなことを思って、あの気まぐれな鸚哥の風切羽を切ったつもりだったが
甘かったようだ。


「その美少女は、今頃他の人とデートしてるのかしら?」


今は知らないが、昨日、進藤と塔矢アキラは打ったのだろうか。

思うと、じわりと胃の裏側あたりが冷えるような心持ちがする。



・・・・・・・・・・・・



当初の目的を忘れて、どうしてオレはこのガキに関わりあってるんだ?
と自問したことも数少なくない。
だが、やはり女といては得られない満足感があるからだ。

食事の最中に不意に手を思い付いて、いつの棋戦の何戦目の何手目が、という
話をしても的確に着いてくる。
そしてその手が本当に良い手なら、説明せずとも「それで勝負がひっくり返る」と目を輝かせる。

今日本の十代の棋士で、そんなことが出来るのは塔矢アキラと、この進藤だけだ。


進藤なら、塔矢アキラの代わりになる。


見た目も性格も正反対のようだが、一度碁会所で碁のことで争っているのを見た時に
この二人はそっくりだと思った。


進藤以外、塔矢アキラの代わりには、なれない。







そんなことを漠然と思ってはいたが、最初に手を出したのは偶然だった。
棋院の廊下をバタバタと走って来た進藤が目の前で転びそうになったのを、
咄嗟に抱き止めたのだ。

女と違って骨太い、けれどもバネのあるしなやかな感触に、
一瞬これが塔矢アキラであれば、と思った。
そして、そのまま抱きしめた。


「おがっ、先生!ちょっと離してよ!オレ、急いでんだよっ!」

「断る。と言ったら?」

「巫山戯ないで下さいよ!どーしても録りたい番組があるんだって!ビデオ予約忘れたし!」

「そんなこと。」

「オレにとっては重要なの!離して!」

「・・・なら、オレの部屋で録るか?」


進藤の家がどこかは知らなかったが、オレの部屋の方が近いのは確実だろう。


「・・・ホント・・・?」


途端に進藤は大人しくなり、


「お願いします!」


顔の前で手を合わせた。


「ああ、構わんが代償は高いぞ。」

「金は取らないでしょ?何でもしますって!」


進藤は安請け合いした。




部屋に帰って新品のビデオテープをセットしたが、内容はつまらない音楽番組だった。
オレは飲み物を用意して、魅入られたように画面を見つめる進藤を、観察していた。

CMを幾つか見送って、完全に番組が終わったのを確認してから録画停止ボタンを押す。
進藤は、ほう、と一つ息を吐いて


「・・・ありがとうございます。助かったよ。」

「いや。」

「さあ!何して払おう?掃除でもしますか?それとも、」


立ち上がって戯けたようにしなを作り、


「カラダで払いましょうか・・・?」


笑った。


「そうだな。そうして貰おうか。」


仏頂面のままで答えたのはわざとだったが、やはり予想通り笑顔のまま動きを止めた。
完全に本気にしてはいない。いないが、目に僅かに怯えの色が走る。
きっとさっき抱かれた感触を、ありありと思い出している。


「・・・はは。先生、そういう趣味なんだ?」

「どうだと思う。」

「でも、それなら身近にキレイどころがいるじゃん。」


自分の指がピクリと動いたのは感じたが、進藤はオレの顔を見ているから
気付かれなかっただろう。


「誰のことだ。」


嘘だ。分かっている。
一人しかいない。


「・・・塔矢。」

「アキラくんか。」

「普通オレより先に、塔矢でしょ。」


・・・塔矢アキラに?

そんなことが出来るはずがない。
野生の鴉が掴まえられる筈がない。

お前から見れば塔矢アキラなんぞ与し易そうに見えるかも知れないが、
それはアキラがお前を見つめているからだ。

お前は、アキラが自分以外誰も見ていないことに、気付いていない。


「もしかしてもう塔矢に振られた?」

「まさか。」

「じゃあ、どうしてオレに。」

「さあ・・・お前だからじゃないか?」


さして考えもせずに言っただけだが、進藤は真っ赤になった。
オレが「そういう趣味」の持ち主かどうか、はっきりしてもいないのに。
この会話が全て冗談かも知れないのに。


「あの・・・すみません、オレ、」

「冗談だ。」

「・・・はぁっ?!」

「本気にしたのか。」

「ったく、なんだよー。オレ覚悟決めなきゃいけないかと思って、びびって損したー。」

「その代わり、今度食事に付き合え。」


進藤がまた笑顔で固まり、また真っ赤になる。
しばらくした後こくりと頷き、その顔を上げないまま、


「っくしょー。本気か冗談か分かんねー。」


小さく呟いた。







それからしばらくして夕食に誘い、美味い物を食わせて、しかし艶めいた会話の一つもしなかった。
その代わり、意識的に目を見つめ、帰り際に頬を撫でた。
進藤は今度は笑わなかった。

それから何度かそういう機会を持った。
オレにしてはゆっくりと時間を掛けたつもりだ。
勿論好きだなどとは嘘でも言わないが。


「明後日休みだろう?デートでもするか。」


こんな言葉が、違和感なく流れる程に。






最初はさすがに相手が男だけあって、唇を重ねたり身体に触れたりするのは抵抗があった。
だが女だと思うことにして口付けると、オレの腕の中で進藤の身体は
どんどん塔矢アキラに変化した。

そう、同じくらいの体格、きっとアキラの腕もこんな風に滑らかだ。
口は、似ているかも知れない。二人とも歯並びが良くて良かった。
鼻はもう少し高いな。
何より目が違うが、閉じてしまえば同じ様な物だ。

アキラの背骨。
アキラの鎖骨。


「緒方さん・・・緒方さ、」


アキラの喘ぎ声も、きっとこんな風だ・・・・・・

進藤は、オレの手が上半身に触れるだけで切なげな顔をするようになった。

オレも自分でも違和感を感じる程、進藤を塔矢アキラと同一視出来るようになっていた。







そうして一枚一枚風切羽を切って、飛べなくして籠に閉じこめて。

偶に外に出してやってもオレの手の中から飛び立てない鸚哥を、
塔矢アキラに見せびらかしてやろうと思ったのに。



最後の一枚を切る前に、上手く逃げて行きやがった。






・・・・・・・・・・・・


「ホテルのお土産やさんでいいのかしら?」

「ああ。」

「鴉髪の美少女に?」

「そうだ。」


冗談のつもりだったらしく、女がまた驚いた顔をした。


「・・・ふふふ。ご執心ね。」

「まあな。・・・これにするか。」

「温泉饅頭?」

「ああ。」

「それは振られるわよ。」

「構わんさ。・・・これの一番大きなものを。」


店の主人に声を掛ける。


「そんなにご家族が多いの。」

「今は一人暮らしだ。」

「・・・それ、嫌がらせに近くない?」

「嫌がらせのつもりだが。」


彼が気付くかどうかは非常に怪しい。
塔矢アキラはある意味一筋縄では行かない男だ。

そして進藤ヒカルは・・・。



「・・・いい性格ね。緒方セ・ン・セ。」


・・・?

違和感・・・?

!!


「・・・・・・くそ!」

「な、どうしたの?」

「・・・いや、何でもない。こっちの話だ。」



・・・オガタサン・・・

進藤の喘ぎ声を聞いて
アキラもこんな風に違いないと思ったのは、思いこみでも偶然でもない。
今、オレの事を「緒方先生」ではなく「緒方さん」と呼ぶ若手棋士は、

塔矢アキラだけだ。

進藤。
あのガキ・・・!




「・・・いやだ。怒ったと思ったら、今度は何が可笑しいの?」

「っくっく・・・。いや、見事にしてやられた事があってな。」

「これ以上温泉饅頭増やさないでよ。」

「そうか。ならやめておこう。」



風切羽など、実は一枚も切れていなかったのかも知れない。

あの鸚哥はペットショップに似合わない。


瞼の裏の大空を、原色の鸚哥と真っ黒な鴉が羽ばたいたような気がした。










−了−








※進藤家にも山ほど温泉饅頭を送ろうかと思ったけれど
  ご家族があるんで思いとどまったそうです。

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