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046:名前 |
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大学の師のお宅にお邪魔したのは学生時代最後の夏の盛りだった。 耳障りな音を予想しながら緑青のふいた門を開けたが、不思議なくらい 何の音もしなかった。 煉瓦敷きの玄関先に立つと、白い扉の向こうに影が差す。 「やあ明子さん、いらっしゃい。」 「お邪魔します。」 靴を脱いで低い玄関に上がり、後ろを向いて履き物を揃える。 立ち上がると天井の高いポーチの上に、ステンドグラスが見えた。 「まあ。見事なものですね。」 「ああ、イタリーに特別に注文したものだが常に見ているので忘れていたよ。 勿体ないことだね。」 師らしいと思った。 初めてお邪魔したこのお宅もとてもその人柄を顕わしている気がした。 高級そうなつやつやした板張りの床、そこかしこに配置された趣味の良いインテリア。 しかし置物類は家政婦には掃除されないのか、少しホコリが溜まっている。 それを気にも留めないのだろう。 左手の、これまた凝った柄のガラスをはめ込んである扉を開けて入る師に従うと 驚いたことに先客があった。 先生は自宅に招く客をうっかりダブルブッキングするほど粗忽な方ではないので 実は余程お時間がないのか、それとも先客の用事が思った以上に長引いたのか。 「コイツは中学時代からの悪友でね、塔矢というんです。 この人は私の受け持っているゼミの明子さん。」 「塔矢行洋です。」 「はじめまして、明子と申します。」 こういった場合はまず名字を言うものかも知れない。 でも先生がお友だちに「明子さん」と紹介して下さったのが単純に嬉しくて 思わずそのまま自己紹介をした。 塔矢という人は見た目からして自分の父より少し若いくらいか、と判断していたが 先生の中学時代からのお友だちということは、私と一回りしか違わないのだろう。 それにしては・・・。 いや、先生が若すぎるのかも知れない。 「彼はプロの碁打ちでね、タイトルも持っているんですよ。」 「そうですか。」 「今日はまあ無理に指導碁に来て貰ったような次第で。」 なるほど、マホガニーの机の上に置かれた碁盤にはびっしりと石が埋まっている。 その碁盤は折り畳み式でいかにも実用的な物だ。 プロ棋士に石を置いて貰うなら安くても足付きを用意すればいいのに、とも思うが それはあまりにもこの家にそぐわない感じもした。 思ったより長引いてやっと終局したというところだろうか。 もうそろそろお帰りになる頃なのだろう。 と、何気なく師が言葉を継ぐ。 「そういえば明子さんも打つんでしたね。どうです一局頼んでは。」 「ええ、でもご迷惑では・・・。」 「まだ時間はあるだろう、塔矢。」 「ああ。」 塔矢という人は無口な人のようだった。 その年齢に似合わぬ落ち着きぶりも年輪も、プロ棋士という仕事を知ってしまうと 納得できてしまう。 師に限らず大学人というのは世間一般に比べて若い、と思う。 派閥争いや研究によってはあまりの負担に早く老け込んでしまう人も多いが、 先生のようにいつまでも学生気分が抜けず、学生のような外見を 維持してしまっている人も少なくない。 いつまでも少年のような瞳を持った教授を私は何人も知っている。 私はそういう所をとても可愛く思うが、一般に世間知らず、とも言う。 それに比べて、恐らく人生の早い段階から勝負事の世界に身を置き、 その勝ち負けによって収入を得てきたであろうこの人は、 常人には伺い知れないほどのストレスや葛藤を繰り返して来たのだろう。 堅気である先生が妙に軽やかで、やくざな仕事である筈の塔矢氏が 非常に重厚な雰囲気を醸しだしている対比を面白く眺めていると急に 「石を、置いて下さい。」 と言われた。 「棋力をお聞きにならないんですか?」 「そうですね・・・段などはお持ちですか?」 いかにも興味がない、弱いに決まっている、と決めつけているような態度に 少し腹が立った。 確かに経験は浅いが、一時はまってよく勉強したから弱い方だとは思わない。 「いいえ。段を取ることには興味がないので。」 しまった・・・。 幾重もの意味において後悔した。後半は明らかに余分だ。 いかにもお遊びでやっているみたいで碁で身を立てている人に対してそれは失礼すぎる。 しかも、本当は強いがそれを誇示する事に興味がないから段は取らない、 と言っているようだ。 その上自分から棋力を聞いて欲しそうにして、実際聞かれると段もないとは。 あまりにも子どもじみている。 普段は絶対しない生意気な口振りに先生は驚いていはしまいかと 思わず顔を見てしまった。 特に表情はなかったが、目だけが面白そうに笑っていて一層自己嫌悪に陥った。 「それではとりあえず四つほど置いてみて下さい。」 塔矢氏は何の感銘もなさそうに淡々と続ける。 「僕はお茶を入れてきます。」 私達が頭を下げるのを見てから先生は去っていった。 意外にも塔矢氏の指導碁は非常に楽しい物だった。 常に自分の位置から最善の一手が見えやすいように出来ていて 2目差で勝たせて貰った。 プロに対して失礼ではあるが、この人は本当に強いんだろうな、と思った。 「この時は実はこちらに置くべきでした。」 「ああ、なるほど。」 「この一手は良かったです。私も唸りました。」 「恐れ入ります。」 褒めるときも貶すときも実に淡々としている。 大げさに褒めすぎないので本当に良かったんだろうな、と思えた。 「いやあ、明子さんは本当に筋がいいね。」 「いやだ。」 「もう僕となら互先で行けるんじゃないですか?」 「まだまだですわ。」 これは本当だ。彼とは過去二度対局して二度とも大敗を喫している。 「お疲れ様でした。今お茶を用意させるから 塔矢と明子さんは少し庭でも散歩していて下さい。」 ぞくり。 その言葉に暑いはずの室内の、少し空気が冷えたような気がした。 先生のご自慢の庭は広く、春はバラが美しいが今は夏の草が茂っている。 雑草を引いている彼が想像付かなかったので嬉しくもありおかしくもあった。 だが、今は笑えなかった。 ゆっくりと隣を歩いている塔矢氏は無口だ。 先生のように洒脱な会話を楽しみたいとも思わないが、もう少し話しても いいのではないか。 仕方なくこちらから声を掛けてみる。 「・・・お気づきですか?」 「何をですか。」 「これは、体のいいお見合いですよ。」 「・・・・・。」 私は師を、愛していた。 勿論表立ってそんなことを言って困らせたわけではなかったが、聡い先生のことだから 絶対気付いている。 私は男性に人気があった。沢山の男子学生に交際を申し込まれた。 先生の視線や仕草から、正直先生も私を憎からず思っている自信もあったのだ。 なのに、その答えがこれか・・・。 興味の無かった碁を始めて、課題もそっちのけで猛勉強したのもただ二回。 二回先生と対局したその為だったのだ。 先生と盤を挟んで二人きり向かい合いたい。短くともそんな時間が欲しい。 それだけの為だったのだ。 その碁を使って先生はするりと逃げて行く。皮肉な物だ。 「・・・そうでしたか。」 かなりの間をおいて塔矢氏が答えたとき、一瞬何に対する返事なのか分からなかった。 それから一週間ほど経って、偶然町で塔矢氏を見かけた。 髪を結った、今時珍しい和装の女性と一緒だった。 すっきりした姿で似合っていたし、それなりの容姿だったが、 正直自分の方が若くて美しいと思った。 秋になり、授業が始まる。 あの暑い夏の日、今年の夏は素晴らしいものになるかも知れない、などと淡い期待を 胸に抱いたことなど嘘のように卒業論文の資料集めだけで過ぎていった夏だった。 最初の授業の後、ああ明子さん、と悪戯っぽい目をした先生に呼び止められた。 「・・・はい。」 「塔矢とは、その後会っていますか。」 「いいえ。この夏は碁を打っている暇はありませんでしたよ。」 碁打ちとして以外あの方にお会いするつもりはありませんよ、貴方の作戦は 失敗でしたよ、と言外に含ませたつもりだったが先生は頓着しなかった。 「アイツは貴女が女性にしては面白い碁を打たれると感心していました。」 「そうですか。」 「もう一度会ってやって貰えませんか?」 彼が会いたいと言っているわけではないだろう・・・。 会わせたいのは先生だろう。 なら、私は、会います。 「お久しぶりです。」 「ああ。」 正直、この人と会うのは気が進まなかった。 年上の男性は嫌いでも苦手でもなかったが、こういう職人気質というか、 世界が狭くてしかも無口な人と言うのは本当に何を話して良いのか分からない。 最初は先生の少年時代の話でも聞きだそうと目論んでいたが、そんなことをしたら 自分の中の何かが溢れ出してしまいそうで、聞けなかった。 「あ、でも一度町でお見かけしたんですよ。」 「そうですか。」 え?いつですか?ああその時はこういう用事で・・・。 普通なら帰ってきそうな返答がない。 話の接ぎ穂がない。 もしかして、私のことがお嫌いなのか。 別にお付き合いをするつもりもないし嫌われても一向構わないが、 原因が見当たらないというのが気持ち悪い。 思い付くとしたら最初のあの失言だけだが、それはあまりにも細かい、と思わざるを得ない。 少し意地悪な気持ちになった。 「女性とご一緒でした。」 「・・・ああ、絽の着物を着た人ですね。」 「はい。お綺麗な方ですね。恋人ですか?」 若い女の無邪気さを前面に押し出して、不躾なことを聞く。 ほぼそうだと思っていたし、ここで彼が返事をすればもう二度とこのような 会見をしなくて済むようになると思った。 「いや・・・。」 ああ、そうか。馬鹿なことを聞いた。 恋人ならしばしば逢瀬を楽しむだろうから、見られた時どんな装いだったか分かるはずがない。 彼女が常に絽を召しているなら別だが。 ・・・というかあれから女性と出歩いたのは一回だけ? 戸惑う私に頓着せず塔矢氏は訥々と言葉を続ける。 「彼女も女流棋士です。その・・・交際を申し込まれたが。」 ・・・どういうつもりだろう。 錆びついた車輪に油を差したように少しづつ舌が回りだしたと思えば、 いきなり驚くほどプライベートな話を始めようとしている。 「断った。明子さんがいるので。」 ・・・・・・・・・は? ・・・彼が私を「明子さん」と呼んだのを聞いたのは今が初めてだ。 私が記憶喪失でなければお会いするのはこれが2回目だ。 しかも先生のお膳立てが無ければ本来二度と会う予定のなかった仲だ。 それで「明子さんがいるので」とは。 でも目の前の塔矢氏は冗談めかして女を口説こうとしている男のようではなかった。 むしろ真面目すぎるくらい真面目な顔をしていた。 まるで生まれて初めて告白をする中学生のように。 年輪と経験を重ねながらもどこかに純粋な少年を残している。 極めて正反対に見える先生と塔矢氏の交遊関係が長らく続いている理由が今分かった気がした。 こういう男に、私は弱いのかも知れない。 声を立てて笑ってしまった私に塔矢氏が不機嫌そうな顔になる。 「私は何かおかしなことを言っただろうか。」 言いました。 でもそれは言わなかった。 「いえ。ええっとそうですね、私、貴方のことを行洋さんとお呼びしてよろしいかしら?」 塔矢氏は驚いた顔をした。 その後可愛いくもはにかんで、 「いや・・・それは棋士としての通り名で本当は『ゆきひろ』と言うんだ。 あまり好きではない。」 「そうですか。それではただ『あなた』とお呼びしましょう。」 「はあ・・・。」 塔矢氏はいよいよ困ったような顔をしてくれて、ますます私のツボにはまった。 それからつつがなく卒論も終了し、卒業式で泣くかと思ったが私は泣かなかった。 勝負師である塔矢は生活面に不安があると思っていたが、本当に碁が強いらしく 同じ年の会社員の平均年収の十倍以上はあったので、私の両親にも親戚にも 否のあろうはずもない。 周囲の羨望を尻目に、卒業してから2週間後に結納を済ませた。 その後塔矢がまたタイトルを取って格段に多忙になったのもあるが、 主に私に問題があったせいで私達はなかなか子どもに恵まれなかった。 私達の縁を取り持った恩師とは、結婚後結局2度ほどしか会っていない。 こちらも忙しかったし、先方も教授になってから色々ごたごたしていたと聞く。 数年経過したとき、その師が突然失踪したと人づてに聞いた。 教授会が重くなったのか、研究が行き詰まったのか。 金銭トラブルや女性関係などと卑俗なことは考えたくないが。 もともと、子どものような人であった。 碁のようなゲームでも数段格下の私に全く容赦をしなかった。 趣味がよく、欲しい物はすぐに手に入れたが手に入れてしまうと大事に出来ない人だった。 「昔から本当に大切な物は人に預ける癖があった。」 塔矢も本カヤの碁盤を預かったままになっているらしい。 恩師が私を憎からず思っていたと言う私の印象がもし正しければ、 私も碁盤と同じく塔矢に託された、とも考えられる。 もっと自惚れて良ければあるいはその逆かも知れない、 でも 今となってはどちらでも良いことだ。 それからしばらくして、アキラが生まれた。 −了− ※アキラさんはやはりこの二人の子。 という感じに仕上がってますでしょうか。 |
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