043:遠浅
043:遠浅










「東京には空がない。」


そんな名句を残したのは誰だったか。

何を言っているんだ、東京にだって空はある。
高層ビル街ならともかくも、ボクの家からだって十分空は見える、大げさな。
当時はそんな事を思ったものだが、最寄り駅を降りて見上げた空は・・・。

今朝まで滞在していた土地で見上げた落ちて行きそうな紺碧の空を思うと
どうしてもくすんで見えた。

なるほど。
ああいった土地から東京に来た人なら、東京には空がないと本気で思うかも知れない。

そしてこんな季節にもどこまでも続いていた、遠浅の海。
息をするのも忘れるほど、美しかった。
それに、暖かかった。
風がこんなに冷たくなかった。


東京なんて。




そんな実のない事を考えながら、バスにも乗らず寒空の下歩いて帰ったのは、
あまり現実に目を向けたくなかったからかも知れない。

こんな言葉で片付けたくはないが、最近のボクは不調、だと思う。
上手く行かないことが二つほどあって、その内の一つが昨日の対局だ。

一柳先生。
容易く勝てる相手ではないが、一度勝ってしまったせいで調子に乗っていたのか。
ともかく、これで一歩タイトルが遠のいたことになる。

投了するのが早かったか・・・。

いや、あの後挽回するのはどうしたって無理だった。
引き際を誤って不様な碁を見せるのは本意ではない。

などと、どうしても思考は碁に戻ってしまう。
仕方がない。
ボクは、棋士なのだから。


考え事をしていたら、もう自宅の近所だった。
帰っても誰もいない家ではあるが、やはりホッとする。


そしてどんどん門に近づくと・・・その前に、人影が見えた。


進藤ヒカルだった。





上手く行かない事のもう一つというのはこの進藤ヒカルで、
ボクに自分が「そういう嗜好」の持ち主だと気付かせた張本人だ。

ボクは、男である進藤が好きだった。

最初は単に彼との対局を追い求めているのかと思ったが、自分の心の中をじっくりと覗いてみると
どうも彼を、恋愛の対象として好ましく思っていたらしいのだ。

ボクにとって幸いだった事は、こういう種類の恋は叶わない筈だと思っていたのに、
どうも彼もボクを憎からず思っているらしい。

そこまでは良かった。

上手く行かなかったというのはつい十日ほど前の、ボクの誕生日の時の事で。


じっくりと彼を観察して、間違いなくボクの事が好きらしいと確信してから
ボクは進藤を自宅に呼んだ。
好きだと言えば、驚いた顔をした後、俯いて自分もだと。

そこまでは予定通りだったのだが。

誕生日だというので気を使って買ってきてくれたケーキを押しのけ、
それよりもキミが欲しい、と言ったら・・・きっぱりと拒まれたのだ。


「そんなの・・・早いよ。」

「ボクはずっと欲しかった。」

「だってオレ、そこまで考えた事ないし、心の準備が。」


・・・溜息が出た。

でもそれはそうかも知れない。
告白したその日にだなんて、性急過ぎたかも知れない。

でも、自分の誕生日という特別な日だからこそ気持ちを伝える事も出来たのだし
こうして無体なねだり事も出来たのだ。
普段の日に、こんな事とても言えない。

結局その日は「オレのプレゼントは、オレの気持ちだ。」そう言われて
ケーキを食べてそのまま帰った。

進藤も好きだと言ってくれたのは嬉しいが、それは元々知っていたことなので
どちらかというと拒否された印象の方が強い。


ボクは元来あきらめのいい質ではないのでこれで終わらせるつもりはないが、
次にこんな事が言える機会がいつ来るかと思うと、気が遠くなる。

最も近いところでは正月というイベントがあるが、その折りには父も帰国して
一緒に過ごすので、進藤と会う時間は取れないだろう。残念だが。







「おかえり。」

「ああ、ただいま・・・。一体どうしたんだ?」

「うん。」


進藤は少し機嫌が悪そうだ。
対局の結果はもう・・・知っているだろうな。


「・・・取り敢えず入る?」

「ああ。」

「一体どのくらい待っていたんだ。」

「ん〜、それ程でもないよ。」


進藤の頬は、雪国の子みたいに真っ赤になっていた。
歩いてなど帰って来ずに、いつも通りバスを使えば良かった・・・。


特に何も話さずに茶の間に入り、熱いお茶を入れると、やっと顔を綻ばせて
ふうふうと吹いて口を付ける。


「あ、そうだ。これ。」


差し出されたのは、十日前と同じ箱。


「前と同じで悪いけど。」


ケーキ・・・。

ボクは、その意味を測りかねる。
一体何だというのだろう。

もしかして。

一柳先生との対局で、ボクが勝つと確信して・・・祝に買ってしまったのだろうか。

気が早い。

少し腹が立つ。
勝っていればそれは相当嬉しいだろうが、負けた今となっては皮肉にしか思えない。
結果が出てから買えば良い物を。
いや、結果が出てから買ったのか・・・?


「・・・どういう意味?」

「どういうって・・・おまえ、美味いって言ってたじゃん。」


そういう事じゃない。
そういう事ではないが、今は進藤と諍いをする気力もないので、何も言わない。

それとももしかして、進藤はまだ結果を知らないのだろうか・・・。


「昨日・・・負けたよ。」

「ああ。」

「知ってたのか。」

「うん。棋院で聞いた。」


それからボク達は黙り込んだ。
検討をしてもいいが、この状態ではボクは進藤を罵ってしまうかも知れないし
どうも進藤もそういう気になれない様子だった。






「・・・あのさ。」

「何だ。」

「・・・オレ達って、どういう仲?」


急になんだ。
でも、碁から話を逸らそうとしてくれているのだろう、ボクも瞬時に頭を切り換える。

どうと言っても、お互いに相手が好きだと伝え合って、でも片方は肉体を拒否していて、
もう片方は何か祝い事でもあれば、もう一度強請ってみようなどと虎視眈々と狙っている。

出来れば来年の誕生日までにボクがタイトルでも取れればそれを機に
などと思っているが今回は無理かも知れない。

とにかくそれまでは、友だちに毛の生えたような関係で我慢するしかない。
今日見た遠浅の海の向こう側にある楽園とやらのように、手が届きそうで、届かない。

そういう仲だ。


「・・・オレ、おまえが強引な事をする奴じゃなくて嬉しかった。」

「ああ、無理矢理ってこと?」

「うん。」

「そんなことしないよ。それに出来ないだろう?」

「まあな。」


でも、もし進藤が力でどうこう出来るほどか弱くても、きっとボクはしない。


「キミがいいと言うまで待つよ。」

「オレが自分から抱いてくれなんて言うと思う?」

「思わない。」


それに


「ボクだって、普段はそんなこと言わないよ。」

「特別な日じゃないと?」

「ああ。特別な日じゃないと。」


進藤は湯気の向こうでにっこりと笑った。
抱きたい・・・そう、思った。





それから進藤は対局するでもなく、検討するでもなく愚図愚図としていてなかなか帰らず、
結局店屋物を取って一緒に早めの夕食を食べた。

ボクが自分に欲望を持っている事を、しかもそれを口に出せないことを知っていて
こうやって暗くなるまで一緒に居るのははっきり言って嫌がらせに近い。

それでも、こうして一つ屋根の下に進藤が居るのは、幸せだった。

もしかしたら何も言わず無言で慰めてくれているのかも知れない。
大きなお世話だしボクには無用だけれど、それが進藤だと思うと・・・
堪らなく嬉しい。

けれど。


「あー、将棋の方は竜王戦かぁ。おまえ、将棋打てる?」


勝手にテレビをつけてのんびりと胡座をかく進藤。


「打てるじゃなくて指せる、だ。」

「ああそうだったな。それで?」

「遊び程度なら。」

「ったり前だよ。将棋もプロ並みとか言ったら嫌味だよ。」

「竜王戦、見たいの?」


リモートコントローラを手にして言うと、少し不安そうな顔をした。


「いや・・・特に。」


ぷち。


解説者の声が止み、静寂が訪れる。


「・・・進藤。」

「あ、あの!」

「?」

「風呂。風呂借りていい?」


・・・はあ?
何を言っているんだ?


「馬鹿言うな。もう帰った方がいい。」

「・・・え?」


立ち上がりかけた中腰で、酷く驚いたように止まる。
なんなんだ。急に風呂を貸せなんて言われたボクの方がびっくりだ。


「え、じゃないだろう。これ以上遅くなったらご両親も心配する。」

「あの・・・オレ、今日は泊まって来るって・・・。」

「は?キミは、予告もなく自宅に押しかけて来た上に泊まるつもりだったのか?」

「だって、」

「だっても何も常識だろう!急にそんな事言われても、客間の掃除もしてないし布団も干してない。」

「・・・・・・。」

「大体この所そんな暇なかったの、キミがよく知ってるだろう?」


進藤は何故か赤くなって、俯いた。
俯いて唇を噛んでいた。
彼は偶に訳の分からない行動をしたり独り言を言ったりするが。

本当に一体何だって言うんだ・・・。


やがて顔を上げた彼は、何か必死な形相だった。
そして


「そんなの、いいよ!おまえの布団があるじゃん!」


な、


「何言ってるんだ!忘れたのか?」

「何を。」

「ボクはつい十日前に、キミを抱きたいと言った男だぞ?」

「・・・分かってるよ。」

「そんな人間の布団で寝たいだなんて、抱いてくれと言ってるようなもんだぞ?」


進藤はますます茹でた蛸のような顔をして凄い勢いで立ち上がり、


「風呂!借りるぞ!」


怒鳴るように言い捨てて、どすどすと廊下に出た。
出たところでピタリと立ち止まって振り向いて、


「どっち!」

「あ・・・と、台所の左手の扉・・・。」


またどすどすと茶の間を横切って、台所の向こうの風呂場に向かう。
ボクは口を開けたままただ座っていた。

そのまま一分間ほど呆けてから、バスタオルを用意すべく立ち上がった。





その後の事は、夢のようで・・・

ボクはこんなに早く進藤の身体が手に入るだなんて露も思っていなくて。
ボクが負けた、こんなに普通の日に。

進藤が自分から抱いてくれなんて。

絶対言わないと思っていた。





無我夢中で終わった後、気怠い余韻の中で進藤の素肌に触れる。
結局茶の間に戻ってきた所を押し倒してしまった・・・。

まだ足りない。
まだ、し足りない。


「おまえ・・・ちょっとは休もうぜ。」

「うん・・・。」


進藤がまた勝手にテレビをつける。
さっきのチャンネルのまま、今度は洋画を放映している。


「あ・・・『ブッシュ・ド・ノエル』だ。」

「ふーん。」

「おまえ、意味知らないだろう。」

「フランス語には疎いんだ。」

「フランス語知らなくても大抵知ってるよ。切り株の形をしたケーキだ。」

「そう。」


どうでも、いい。そんなこと。


「だからぁ、やめろって。」

「痛い?」

「いや、もうそんなでもないけど・・・。このケーキはな、」

「うん?」

「ふふふっ、こらこら。・・・これはな、クリスマスに食べるケーキなんだ。」

「?」

「『ノエル』って、フランスのクリスマスなんだって。」

「クリスマス、か。縁がないな。」

「・・・・・・『キリスト教じゃないから祝う義理はない』?」

「う〜ん、そこまで意固地になってる訳でもないけれど。家風かな。」

「でも、偶にはこんなクリスマスもいいだろ?」



・・・・・・え?



「メリークリスマス。塔矢。」

「あ・・・・・・。」



・・・あはははっ。やっぱ知らなかったかぁ。
途中でおかしいと思ったんだよ。

・・・・・・。

そう、だったのか。
そうか・・・今日は・・・


そういう日、だったのか・・・。


・・・気付かなかった。全然。


キミの、プレゼントにも。



ごめん・・・。
・・・ありがとう。

多分ボクが初めて口に出す言葉だと思うけれど。


メリークリスマス。
進藤。






明け方、浅い眠りの中でボクは夢を見た。

昨日駅から空を見上げた場面の再生。
だが現実とは違ってそこには、痛いくらいに青い空が広がっていたのだ。

それから前に目を向けると、美しい、美しいエメラルドグリーンの遠浅の海が広がっていて、
その向こうに・・・鮮やかに赤いサンタクロースの格好をした進藤がいた。

ボクが躊躇わずに歩き始めると、海底はいつまでも浅く、どんどん進藤が近づいてくる。

何だ、楽園なんて、歩いていけるんだ

それに、なんて暖かい水。


その温もりは、隣で寝ている進藤の体温なんだと
ボクはどこかで気付いていたけれど
この幸せな眠りから覚めたくなくて
遠浅の海を歩き続けたのだ。








−了−






※ごくごくナチュラルにアキヒカを書いている私がいた・・・。
  プロ棋士とは思えないイベント野郎ピカ(笑)
  ところでクリスマスイブですよ!アキラさん。
  2003/12/24 のNHK-BS2はこういう番組表(予定)。
  メリークリスマス。みなさん。

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