扇 「・・・日煥?」 扉を開けた永夏が目を見開いた。 「よお。」 「懇親会はいいのか?」 「一番に抜けた奴が何を言う。」 日煥が邪魔する、と言って肩で扉を押し開け、中に進むとやはりアキラとヒカルがいた。 ベッドの上に先程のマグネット式碁盤が置かれ、恐らく副将戦であろう棋譜が並んでいる。 ヒカルはその碁盤の隣に腰掛け、アキラは一人用の椅子をベッドの方に引き寄せて 横から覗き込む形になっていた。 マットレスの、碁盤を挟んで反対側が少し窪んでいる所を見ると そこに永夏が座っていたのであろう。 小さい盤の上に三人で頭を寄せ合ってひそひそと話している残像が見えるような気がして 日煥は腹を何かに焼かれるような気持ちを訝しく味わった。 「今、面白い所なんだ。」 永夏が案の定窪んだ所に座り、石を指に挟む。 カチ。 置いた手にヒカルが息を呑んだ所をみると、どうも実際の棋譜とは 違うようだ。 途中から打ち直している、と言った所か。 日煥も当初の目的を忘れて永夏の後ろに腕を組んで立ち、その盤面の行方を 見守る体勢となった。 「面白い所」と言ったな。 確かに面白い。 という以上に・・・。 ヒカルが考えている間、盤面は動かない。 日煥はその間にアキラに目を向けようと思ったが、出来なかった。 頭の中にはアキラの白い肢体が浮かび、懸想する事も出来るのに、 何故か盤面から目が離せない。 自分が今、アキラの体よりもその盤面に欲情していると気付いた時、 日煥は静かに自分を嗤った。 十数手緊迫した攻防が続いた時、ふと日煥はヒカルの様子が静か過ぎる事に 気付いた。 一手進む度にアキラと永夏は大きく息を吐いたり唸ったり、独り言めいた呟きに また独り言のように答えたりしているが、ヒカルは息をしているのかと思うほど 静かだった。 石を置く時の手以外、動かない。 マシーンのようだ。 瞬きもせず、何かに操られているように無表情に淡々と石を掴み、配置して行く。 その筋は、不思議とヒカルらしからぬようにも思える。 やがて、一つの石を置くと、ヒカルは黙ってベッドを乗り越え 一人で部屋を出ていった。 残された三人は盤面を見た。 まさか。と思う道。 しかし一見して、今の一手で勝負が決まったように見える位置。 諦めきれない永夏、ヒカルの碁に執着しているアキラはまだ目を離せないが 日煥はすぐに自分にはもうひっくり返せない、と見切りをつけた。 大きく息を吐いて、少し離れた所から2人を見る。 髪が触れそうに頭を寄せ合って、しかしお互いに相手の存在を忘れるほど 張りつめているのだろう。 永夏はキレたら何をするか分からない。 この2人の緊張の糸が切れた時、アキラの身は危ないかも知れない。 だが。 日煥は迷った。 迷ったが・・・どうしても進藤の行方が気になる、本能の声に従った。 静かに廊下に出て、進藤の気配を追って辺りを見回したが探すまでもなかった。 左手端の、非常脱出口らしい三角の印がついた窓が開いていて、 その下にスーツのまま蹲っている。 「進藤。」 近づいて、何を話していいのか分からない。 それ以上に言葉が通じないからには何かを話す意味などない。 だが、何か先程から様子が気になって仕方がなかった。 しかし近づいてヒカルを見下ろした時、日煥の戸惑いはさらに増した。 ヒカルが声を殺して泣いている。 肩が震え、時折「ふ、」「く、」という嗚咽が聞こえる。 何故か膝の上に広げられた古ぼけた扇子の上に、ぱたぱたと絶え間なく涙が落ち、 紙に吸い込まれなかった幾筋かは要の方に流れて行った。 北斗杯以上に圧勝だったのに、何故? それにしても。 ・・・こんな時、どうすれば良いのだろう・・・。 只でさえ年下の少年の慰め方など分からない。 このまま踵を返せば簡単だ。 だが、何故か出来なかった。 日煥は自分が無骨だと分かっていたので、上手い事出来るとは思わなかったが 隣に自分もしゃがみ、おずおずとその柔らかい髪に触れ、そして撫でた。 秀英なら、抱きついてきてわぁわぁと泣くだろうと思ったが、 さすがにヒカルは動かなかった。 だが、嗚咽は激しくなった。 時が過ぎ、涙が納まってきたヒカルは日煥を見ずに立ち上がり 扇をぐしゃ、と閉じた。 折れ目の通りにきれいに畳まれず、竹の骨を軋ませる。 日煥も立ち上がって見ていると、今度は大切なもののようにそっと開き、 しばらく見つめ・・・ 肩の後ろに振りかぶってまた止まり、少しの間震えた後、 勢い良く窓の外に投げた。 「あ・・・。」 日煥は思わず窓枠に手を掛けて、目で追った。 ホテルの隣の公園の緑を背景に、白い扇がひらり、ひらりと 命を持っているかのように舞う。 ひらり ひらり 傷つき、捨てられた扇。 ひらり ひらり 遠ざかっていく。 遂に視界から消えた時、同じく隣で見送っていたヒカルに目を移すと、 『塔矢××、×××××××・・・。』 呟いた。 何と言ったのか分からない筈だが、何となく「塔矢には言わないでくれ」と 言われたのだと思った。 ヒカルがふらりと立ち去った後も日煥はしばらく窓の外を見つめていたが 意を決したように、エレベーターに向かった。 何故そんな事をするのか分からない。 悪趣味だとも思う。 だが急かされるように一階に降り、ホテルに付属した庭園に向かった。 庭に出て、位置を確かめるようにホテルを見上げる。 恐らく簡単には見つからないだろうし、それならそれで構わないと思った。 だが、それは小道の真ん中に横たわっていた。 日煥に見つけられるのを待っていたかのように。 傷ついた、扇。 真っ白いそれを拾い上げてみると骨も折れている。 裏返してみたが、そこにも何も書かれていなかった。 何の変哲もない、扇。 だが日煥はそれを丁寧に畳むとスラックスのポケットに入れた。 何か酷く疲れ、自室に戻ってキーを取り出し、中に入ってベッドに倒れ込む。 ポケットの固い感触から来る痛みに少し耐えた後、座り直して 扇を取り出してみた。 確かにヒカルは自分の手で投げ捨てたが、 本当は投げたくなかったのではないかと思った。 なら何故投げたか。というとそれは見当もつかない。 だが、さっき握りしめた時の骨の折れやゆがみ、庭でついた土を除いても 随分使い込まれているようで、相当の愛着を持っていたのではないかと 思われる。 大切な、大切な扇なのではないか。 もう役に立たない壊れた扇。 広げると、ヒカルの涙の染みがついていて、紙が波打っている。 コン、コン。 ノックの音に、慌てて扇を畳んで鞄の中に入れ、ドアを開けた。 何となく塔矢かと思ったが、そこに立っていたのは秀英だった。 「日煥?もうすぐパーティー終わるよ。全っ然帰って来ないんだもん。」 「ああ・・・悪い。最後は顔を出すよ。」 「頼むよ。」 生意気な口調で言った後、微かに首を傾げる。 「・・・で、どうして泣いてるの?」 日煥が驚いて自分の顔に触れると、片方の頬が濡れていた。 「・・・悲しい事があったの?」 「分からない。」 本当に分からない。 何故塔矢の事も碁も忘れて、ほとんど面識すらない外国人に同情しているのか。 いや、同情・・・とも違う。明らかに。 分からない。 「ならどうして?」 「さあ・・・涙というのは、伝染するんだろうか。」 ただ、ヒカルが何か大切なものを失ったのだと分かった。 それが「進藤ヒカル」としてなのか、「プロ棋士」としてなのかは分からない。 けれど不思議と、自分も同じく、確かに何か大きなものを失ったような気がしていた。 出会うはずだった好棋譜。あるいは師。 そんな遠い未来の有り得た記憶を刹那垣間見せるだけ見せられて、 そのまま失ったような。 「伝染すると思うよ。」 我に返って秀英を見る。 「・・・何故おまえまで泣くんだ。」 「わからない。」 日煥の頬に、手を伸ばす。 「わからないけど、泣いた事のない日煥が泣いているのを見るとボクまで泣けるよ。」 それでも日煥の涙は止まらない。 「だから、泣かないで。」 頬に触れた小さな手は、温かかった。 自分はもう泣くまい。 進藤にも何も聞かず、あの扇も誰にも見せない。 もしかしたら塔矢に見せたら面白がるかも知れない。 進藤の涙の理由に見当が付くかも知れない。 だが、やはり見せない。 自分が将来、今の進藤と同じ傷を負う事があればあの扇に癒されるかも知れないが それまで自分も見ないように、深く深くしまっておこうと思った。 −了− ※原作ベースで佐為と日煥を接触させるのは無理すぎました。 |
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