048:熱帯魚








芦原さんが、緒方先生は最近付き合いが悪い、などと愚痴をこぼしているのは知っていた。

どこの研究会にも滅多に姿を見せず、タイトルを取ったからと言って
調子に乗っているなどと口さがない人たちには言われているらしい。

しかしそんな陰口を気にする人では元々無い。
だが、芦原さんまでもがそんなことを言うという事は、飲み会や
緒方さんの好きそうなイベントまで断っているという事だろう。
一体どうしたというのだろう?

と、多少気にはなっていた所で、棋院で当人を見掛けたので
「最近引き籠もってらっしゃるようですね」と冗談めかして声を掛けた。
・・・驚いた。


「アキラくん、恋というものは、素晴らしいものだな。」

「・・・・・・。」


止まってしまった。
ボクを笑わせようとしている風でもないし、聞き違いでもない。
緒方さんの偽者でもないし、ボクが夢を見ているという訳でもなさそうだ。


「・・・好きな、方でも?」

「まあな。」


それでその人とマンションに引き籠もっている訳か・・・。
不健全と言えば果てしなく不健全。
だがこれで結婚でもすれば、良き家庭人と言われる事になるのだろう。
あの、緒方さんがねぇ。


「そうだ。君も見に来るか。」


意外なことを言う。
緒方さんは自分の恋人を人に紹介したがったりするタイプではない筈だ。
事実、今まで何人もの噂を聞いたが、実際に見たりお会いした事はない。

それ程真剣という事か。
そんな人を見てみたいのは山々だが、二人の愛の巣にお邪魔するのも・・・。

若干躊躇ったが、緒方さんは返事も聞かずにもう先に立って歩き始めていた。
ボクは溜息をついて、従った。






「これは・・・見事ですねぇ。」

「ああ。一目で惚れた。」


壁一面に巨大な水槽が据えられていて、その中に相応しく雄大なメタリックの魚が
ゆったりと身を翻して居た。


「ドラゴン・フィッシュだ。」

「アロワナじゃなかったですっけ。」

「そうとも言う。」


同じ種類の魚に個体差などある筈もないと思っていたのだが、確かにこのアロワナは
過去に見た数少ない中でもとび抜けて美しい。
一枚一枚丁寧にグラデーションを施された角張った鱗が閃く様は、何とも言えない凄みがある。
緒方さんがドラゴンと呼びたくなるのも分かる気がした。

なるほど、これが緒方さんを家から出さない「恋人」の正体という訳だ。


「稚魚から飼っているんですか?」

「いや、50ぐらいか。」


当たり障りのない会話をしながら、水槽に見入る。
真ん前に椅子まで持ってきてうっとりと見つめる緒方さんは、本当に恋をしているようだった。

眼鏡越しに見つめる緒方さんを、近づいてきたアロワナがガラス越しに見つめる。
すぐにふい、と顔を逸らして、泳ぎ去る。
緒方さんは傷ついたような表情になる。

その一心に水中を見つめる姿に、ふと思い出した事があった。
ギリシア神話の中で、水に映った自分の姿に恋をした少年。
見つめても、見つめても、叶わぬ想い。
名は・・・ああ、思い出した。ナルキッソス。

とにかく、緒方さんはアロワナをアロワナとして見ているのではなく、
もしかしたら自己を投影しているのではないかと何故か不意に思ったのだ。
そう言えば、いかつい鱗や無愛想な目が似ていなくもない。

ゆっくりと威厳を持って泳ぐ、魚の王者の如く大きくて美しいドラゴン・フィッシュ。
斯くありたいと思う気持ちも分からないでもないが、だとしたら、随分トウの立ったナルキッソスだ。




「そうだ、そう言えば、ここに前あった沢山の水槽は?」

「ああ。一つはPCの方に置いてあるが、あとは処分した。」

「中の魚は?」

「目の前にいるじゃないか。」


そう言われてよく見てみると、アロワナが巨大すぎて目につかなかったが、
確かに小さい魚も一緒に入っている。
しかしグッピーなどは圧倒的に数が減っている気がするが、水槽が大きいせいか・・・?


「それは、食っているんだろう。」

「アロワナがですか?そんな。」

「いいさ。思えばコイツに食わせる為に今まで飼っていたようなもんだ。」


・・・だってあんなに可愛がって大切にしていたのに。
新しい魚が来たからと言って、そんなにあっさりと切れるものだろうか。

いや、それだけこの魚が特別だと言うことだろう。
今までの魚はペットに過ぎないが、これは家族・・・いや、ボクの直観が正しければ
自分自身のようなものなのだろう。



しかし、ということはボクが気に入っていたあの魚も・・・。
黄色と黒の縞しまが如何にも南国の魚といった派手さで、でも可愛くてすばしこくて。

ざっと見渡してみてもいない。
水草の陰に隠れている可能性もあるが、遅かれ早かれだろうと思うと
胸苦しくなって探す気にもなれなかった。


「『進藤』と、心の中で呼んでいたのだろう?」


いつの間にか緒方さんは、部屋の端の小さい水槽の側にいた。
何故ボクの思考が、見透かされたのだろう。いやハッタリか?


「・・・何がですか。」

「あれはもう、いない。」

「・・・・・・。」


緒方さんは銜え煙草のまま網を持って、早足で戻ってくる。
腕を伸ばしてアロワナの水槽の上の小さい蓋を持ち上げて、中にぽちゃん、と何かを落とした。

何かのアルビノだろうか?
青白い、細い魚が数秒止まったまま静かに沈んだと思うと、突然生命を吹き込まれたように
ひゅるりと泳ぎ始めた。


「進藤は、これをおまえのようだと言っていたよ。」

「この魚がですか?」

「そうだ。」


ふうん、どこがボクのようなのか全く分からないが、別々に緒方さんの部屋に来て、
似たような感想を残したものだと思った。


その時。


今までグッピーに見向きもせずゆっくりと泳いでいたアロワナが、
さりげなく、しかし驚く程の俊敏さでさっきの魚の背にぱくりと食い付いた。


「・・・!」


がしりとした顎で、くい、くい、と飲み込んでいく。
食われている方の魚は苦しがっているようだが、逃れようもない。
アロワナの方は、葉巻か煙草でも銜えただけといった様子で悠然と泳ぐ。

背骨が砕けた音が聞こえたような気がした。
内臓だろうか、何か白いひらひらしたものが出ている。

ボクは全部飲み込む所まで見ず、目を逸らした。
たかが小さな魚ではあるが、自分のようだと言われたばかりだったので、良い気はしない。


「きれいで、高い奴だが。」

「それもアロワナのエサですか。」

「彼の好物なら仕方がない。」


小さな水槽に隔離してあったのは、ここに入れたらすぐに食べてしまうからか。
それにしても、わざわざボクが来た時に食わせるとは。
相変わらずいい趣味をしている・・・。


「アキラくん。」


不意に。

首の後ろを、掴まれた。
ボクは先程のアロワナの俊敏な動きを思いながら、震えないように、奥歯を噛んで目を固く瞑る。

そんな気はしていた。
自分の勘がいいのが、こんな時には呪わしい。
やはり、そうだったのか。

アロワナは、緒方さん。

もう黄色と黒の魚を、食ってしまったんだ。


そして、白い魚も。







済んだ後のけだるさは思った以上だったが
進藤と同じ地獄に堕ちたのだと思えば、悪いばかりでもない。
あの魚と違って、命まで取られる訳ではないし。

寝ていても緒方さんはアロワナの自慢話ばかりしていた。


「気が付い・・・?前に、・・・で見たシルバーアロワ・・・違うだろう?」

「・・・・・・。」

「・・・れはな、スーパーファントムと言って、超希少種なんだ。」

「ファントム・・・」

「幻の魚という事だろう。」


笑えた。
ボクの中にあった確かな質量は、どう考えても幻などではない。


「それでは、その幻に沢山の魚を食べさせて大きくして、どうしようというのです。」


グッピーたちも、緒方さんに食われたあるいは食われる生き餌なのだろうか。
本当に、そんなに食べてどうするのだろう。


「ああ・・・いずれ時期が来れば捌いて食おうと思っている。」

「・・・ええ?」


食う?


「アロワナを?」

「ああ。」

「緒方さんが?」

「ああ。」


高級魚を・・・というか、食べられるんだろうかとか、
あまりにも思いがけない返答に、頭の中がごちゃごちゃとして回転を止める。
それにしても

アロワナは、緒方さんではなかったのですか・・・?
それでは、一体。


「ドラゴンを、幻を食うにはそれしかないんだ・・・。」


ボクの耳元に吹き込まれた声はしわがれていて、何故か苦しそうだった。






後日進藤に、ドラゴンフィッシュに白い魚も食われた旨を伝えると
あれには名前がある、と教えてくれた。

何故か、暗く嗤っていた。








−了−







※お察しの方はお察しだと思いますが、インスパイアは「フライド・ドラゴン・フィッシュ」
  昔の日本の短編ドラマですが面白いです。話はこれと関係ないです。

  最後の三行は入れるかどうか散々迷った。
  未だにsai に囚われていて、少しおかしくなって来ている緒方さんと
  それをあざ笑っているピカいう事で一つよろ。






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